小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1897 五輪がもたらす栄光と挫折 アベベの太く短い人生

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 東京五輪がコロナ禍により2021年に延期された。さらに大会の簡素化、再延期、中止といった五輪をめぐる議論が続いている。五輪は出場する選手にも大きな影響を与える。ティム・ジューダ著、秋山勝訳『アベベ・ビキラ』(草思社文庫)を読んだ。ローマと東京の2大会連続してマラソンで金メダルを獲得したアベベ。五輪によって人生が変わり、短い生涯となってしまったアベベを描いた本を読み終えて、五輪の功罪をあらためて考えさせられた。  

 前回の東京五輪は1964(昭和39)年の開催で、日本は経済の高度成長期にあった。この大会でアベベが優勝し、日本の円谷幸吉(円谷について書いた本はいろいろあるが、私はよく知られている沢木耕太郎の「長距離ランナーの遺書」よりも増山実の『空の走者たち』の方が取材が優れていると思う。後段の関連ブログ1754参照)は銅メダルに輝いた。円谷は次のメキシコ大会を目指すも体の故障で思うように走れず、自死してしまう悲劇の人になった。

 一方、エチオピア最後の皇帝の親衛隊兵士だったアベベは、スウェーデン人、オンニ・ニスカネン(この本はアベベとともに、エチオピアのために幅広く活動したニスカネンの波乱の生涯についても詳しく触れているが、このブログでは割愛)に見いだされ、1960(昭和35)年のローマ大会で無名ながらいきなり優勝する。しかも裸足で42・195キロを走り抜けるという、思いもよらないスタイルで世界の人々が度肝を抜かれるのだ。  

 この本には裸足で走った真相として、アベベの娘、ツァガエの本から次のような一節を引用している。 《持ち込んだシューズを履きつぶしたため、足に合うシューズを探しに父は買い物に出かけた。足になじませようと、レース数日前から履きならしていたが、シューズはどうしてもなじまない。それどころか、水ぶくれができて痛み出す。こんな調子でどうすれば42キロを走り通せるか、父は当然のように不安を募らせた。妙案はいっこうに浮かばない。考えたすえにひとつの方法を思いつく。裸足だ。エチオピアに勝利をもたらすと約束していたニスカネンには、父が裸足で走ることは、進んで墓穴を掘ることにしか思えなかった》  

 このほかにもツァガエの本から引用し、アベベは裸足で走ることに慣れており、足の裏は分厚く石炭みたいに真っ黒で、触ると軍用トラックのタイヤのように頑丈そうな皮をしていたということも、ティムの本に書かれている。  

 東京大会では、盲腸(虫垂炎)の手術後35日しか経ていないにもかかわらず出場、コース半ばから独走して優勝、「東京の奇跡」といわれた。記録は当時の世界新記録(2時間12分11秒2)であり、五輪史上初めてのマラソン2連覇だった。靴を履いて走ったアベベはゴール後、倒れ込むと思っていた多くの予想に反し整理体操をやって、大観衆を驚かせたという。  

 アベベは、次のメキシコ大会(1968年)にも出場する。しかし、左足腓骨を骨折していたこともあって満足な走りができずに途中棄権してマラソン人生が終わる。この大会では、同じエチオピア皇帝の親衛隊兵士だったマモ・ウォルデが優勝、日本の君原健二が銀メダルを取った。アベベは走る哲人と呼ばれ、物静かで礼儀正しい選手と思われている。しかし、この本によると、彼は外国人に対してはそうした態度で接したが、自分の国の人に対してはそうではなく、かなり高圧的だったという。私生活も乱れ、アルコールにも溺れた。従順だったニスカネンコーチにも次第に距離を置くようになる。アベベは親衛隊内でも尊大になり、次第に誰の手にも負えなくなっていったという。それは仕方がないことなのかもしれない。  

 メキシコ五輪の翌年の1969年3月23日夜、アベベエチオピアの首都アジス・アベバ北方のシャノという町で運転していた車が横転する事故を起こす。第7頸椎脱臼という重傷だった。下半身不随となったアベベは、車いすの生活を送ることになる。その後、1972年のミュンヘン大会に貴賓として招待され、車いす姿で開会式に出席。そのわずか1年後の1973年10月25日、事故を遠因とする脳内出血のため、41歳(実年齢は不明)という若さでこの世を去った。  

 アベベは偉大なマラソン選手として著名な一方で、パラリンピックの先駆けとなる大会にも出ていたことはあまり知られていない。1970年7月、イギリスのストーク・マンデビルバッキンガムシャー州アイルズベリー)で開かれた第19回ストーク・マンデビル車いす競技大会のアーチェリーと卓球に出場したのだ。さらに1971年4月、ノルウェー身体障害者を対象にした競技会の犬ゾリレースでは完走して優勝している。アベベが長生きしていれば、障害者スポーツでも活躍したかもしれない。  

 アベベは走ることでエチオピアの英雄になった。しかし、その人生は幸せな一生だったといえるかどうか分からない。メキシコ大会で優勝したマモは、次のミュンヘン大会でも銅メダルを獲得するなど活躍した。エチオピアの政変後の1992年、マモはかつて15歳の少年の射殺事件に関与した疑いで身柄を拘束され、2002年1月懲役6年の刑を言い渡された。既に拘留が9年を過ぎていたため釈放されたが、その4ヵ月後に病気のためこの世を去る。69年の生涯だった。マモもまた「栄光と悲劇の人生」を送ったひとりだった。  

 スポーツ選手には大なり小なり栄光と挫折が付きまとう。アベベの生涯を描いた本を読んで、リオ五輪で金メダルを獲得後、極度の不調に陥った水泳の萩野公介、日本の女子水泳界を牽引することを期待された天才スイマー池江璃花子の急性白血病発病のことが頭に浮かんだ。2人はこれからどんなスポーツ人生を歩むのか。苦しみに耐え、人間として競技者として成長した姿を見せてくれることを願うばかりである。  

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