小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1041 被災地にて・石巻2 文人が見た日和山からの風景

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 東日本大震災で、一番被害が大きかったのは宮城県石巻市だ。震災後、幾度となくこの街を訪れながら、中心部を一望することができる日和山公園に行く機会に恵まれなかった。先週末、その機会がようやくやってきた。

 標高が56メートルという丘陵地の公園がかなりの高台にあるように見える。それだけ石巻市街が低地にあるということだ。 早朝の日和山は空気が澄み、眺望はいい。空は青く、あの日荒れ狂ったはずの北上川も静かにゆったりと流れている。

 眼前にはがれきが撤去された空間が広がり、復興に苦悩する街の姿が見えた。街を展望する場所には震災前の市内を写した大きな写真が何枚か展示されている。目の前の街の姿と見比べる。津波の猛威が蘇ってくるような胸苦しさを感じる。

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 日和山には松尾芭蕉石川啄木宮沢賢治志賀直哉斎藤茂吉種田山頭火、釈超空(折口信夫)、新田次郎ら多くの文人が上り、石巻の街を見下ろしたそうだ。このうち志賀直哉を除く文人たちの歌碑や句碑があることを知った。これだけ多くの文人の歌碑・句碑があるのは、広島県尾道市千光寺公園「文学のこみち」と匹敵するのではないかと思った。

 日和山公園の鹿島御児神社境内にひっそりと建つ芭蕉の句碑を探し当てた。かなり昔に建立されたものらしく、隣の松に隠れるようになっていて「雲折々人を休めるつきみかな」という碑の文字がよく読めない状態になっている。

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 山頭火の方の句碑は駐車場近くにあり、比較的新しい。「早い朝湯にはいってから日和山の展望をたのしむ。美しい港の光景である。芭蕉の句碑もあった。」という文章に続き「水底の雲みちのくの空のさみだれ あふたりわかれたりさみだるヽ」の2句が記されている。

 1936年(昭和11)6月26日に日和山に足を運んだという山頭火は、芭蕉の句碑を見て何を思ったのだろう。

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 日和山には「われらひとしく丘に立ち」という宮沢賢治の詩碑もある。1912年(明治45)5月、旧制盛岡中学4年だった賢治は、修学旅行で北上川を下る川蒸気船に乗り、石巻にやってきて、この山から初めて見た海に興奮して、詩を書いたという。それがこの詩だそうだ。15歳の少年、賢治の感性が伝わってくる。

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《われらひとしく丘に立ち 青ぐろくしてぶちうてる あやしきもののひろがりを 東はてなくのぞみけり そは巨いなる塩の水 海とはおのもさとれども 伝へてきゝしそのものと あまりにたがふこゝちして たゞうつゝなるうすれ日に そのわだつみの潮騒の うろこの国の波がしら きほひ寄するをのぞみゐたりき》

 江戸時代の芭蕉をはじめとして日和山からの眺めは、多くの文人の目を楽しませた。しかし大津波文人たちが見た街の様相を一変させてしまった。 だが、嘆いていてもしようがない。東北の、そして石巻の人たちの強さ、しぶとさ、粘りを信じて応援するしかない。

 そんな思いを抱きながら、山を下りる。 すれ違うように山へと向かってジョギングする中年の男性がいた。足取りは軽く、見ていて気持ちがいい。その速さにこちらも元気づけられたような気がした。復興の足取りも、あんなふうにあってほしい…。

 写真 1、日和山から見た北上川を挟んで広がる石巻市街 2、展望台に展示された震災前の同じ場所から見た市街 3、目立たない芭蕉の句碑 4、山頭火の句碑 5、宮沢賢治の詩碑

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