小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1698 戦争に翻弄された世界のフジタ 2枚の戦争画は何を語るのか

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 太平洋戦争中、画家たちは軍部の依頼・指示によって国民の戦意高揚を意図する絵を描いた。エコール・ド・パリの画家として知られる藤田嗣治もその一人だった。東京都美術館で開催中の「藤田嗣治展」で、そのうちの2枚を見た。彼を有名にさせた「乳白色の画」とは異なる迫真性に富んだ作品だ。あの戦争が終わって73年。意外にも、この2枚の大作の前で足を止める人はあまりいなかった。

 その絵は『アッツ島玉砕』(1943年作)と『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年作)である。北アメリカのアッツ島は1942年6月、日本軍がミッドウェー作戦の陽動作戦のためにキスカ島とともに占領し、熱田島と改称した島だ。翌43年5月12日から米軍との間で激しい戦闘があり、日本軍守備隊2600人が戦死し、大本営は初めて「玉砕」という言葉を使い、この島での日本軍の全滅を発表をした。  

 また、サイパン島北マリアナ諸島にあり、第一次世界大戦で日本軍がドイツ軍を放逐。1920年から日本の委任統治領となり、軍の司令部が置かれ、沖縄出身者を中心に3万人近い民間人が暮らしていた。1944年6月、連合軍が上陸、日本軍との間で激しい戦闘が続き、日本軍は3万人が戦死して全滅した。戦いに巻き込まれた住民は自決したり、バンザイ・クリフという崖から海に投身したりするなどして8000~1万人が死亡した。サイパンを奪還した米軍は、日本本土を爆撃するB29爆撃機の発進基地とし、以降日本全国が空襲に見舞われるようになる。  

 2枚の絵はこうした戦争の歴史を踏まえたもので、暗い色調だ。『アッツ島玉砕』は、折り重なうようにして戦う兵士たちと後方に激しい波が岩を洗っている光景が描写されている。敵味方入り乱れ、それはまさに死闘のように見える。一方、『サイパン』は、追い詰められた日本軍の兵士と住民が玉砕する姿を描いたものだ。中央には自決を覚悟し、放心状態と思われる女性と子どもたち、左後方に鉄砲を構えた日本兵、右端にはバンザイ・クリフからの投身者、右と左に抜き身の刀を持つ兵士などが描かれている。  

 2つの絵とも反戦画のように見えなくもないが、現実には一億総玉砕という軍部の意図に沿って玉砕を美化しようという狙いがあったという。パリから日本に戻っていた藤田は有名画家として知られていたから、軍部から目を付けられた。そして、陸軍美術協会理事長という肩書も持つことになった。藤田にはそぐわないと思うだが、それがこの時代なのだ。これ以外の戦争画も描いたため、藤田は戦後になって「戦争協力者」というレッテルを張られ批判を受けた。耐えられなくなった藤田は1949年フランスに戻って国籍を取得、カトリックの洗礼を受け、フランス国民として晩年を送った(1968年没)。「日本に捨てられた」と思った藤田は、キリスト教に救いを求めたのだろうか。  

 日本の画家たちによる戦争画は、東京国立近代美術館に米国から無期限貸与された藤田の作品を含め151点が収蔵されている。太平洋戦争当時、陸軍、海軍の作戦記録画として制作された大作が多く、これらは当時の陸軍、海軍などが主催した戦争画展に出品されたもので、日本人画家による戦争画の代表作といえる。

 藤田がどのような思いで戦争画を描き、戦後日本を去ったのか、さまざまな見方、意見がある。芸術性についての評価も定まっていないようだ。他の絵に比べ戦争画の2枚の絵に足を止める人が少なかったのは、藤田の絵のイメージとあまりにも違うことに、入場者が違和感を抱いたためなのだろうか。

(注)この2枚について東京都美術館は「作戦記録画」という説明をしている。同美術館によると、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の陸海軍 の依頼により画家が戦争を題材に描いた公式の戦争画のことを「作戦記録画」と呼ぶそうだ。

1397 地球の裏側にやってきたペルーの宗教画 藤田嗣治が持ち帰ったクスコ派の作品  

1395 これが安藤忠雄の真骨頂 藤田嗣治壁画の秋田県立美術館