小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1397 地球の裏側にやってきたペルーの宗教画 藤田嗣治が持ち帰ったクスコ派の作品

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 日本画の技法を油彩画に取り入れ、エコール・ド・パリの画家として知られている藤田嗣治は1931年南米旅行をした際、ペルーのクスコを訪れている。標高3400メートルの高地にあるクスコはかつてのインカ帝国の首都で、インカ文明の中心地だった。ここで藤田はペルークスコ派の宗教画に接し、何枚かの絵を購入したのだ。私にはそれが意外だった。

 クスコがスペインのフランシスコ・ピサロに襲われたのは1534年のことで、インカ帝国は滅亡する。スペイン人はこの街の宮殿や寺院を次々に破壊し、キリスト教の大聖堂、修道院などを建設し、現地の人々にヨーロッパ文明を押し付ける。ペルーではクスコ派(スペイン人が絵画の才能のある人を選んで宗教画を描かせた)といわれる宗教画家たちが誕生する。

 藤田が旅した当時、クスコでは名もない画家たちの宗教画がかなり残っていたのだろう。興味を示した藤田はそれらを購入し、日本に持ち帰った。その宗教画は、現在秋田県立美術館で開催中の企画展「藤田嗣治の旅~マドレーヌの好きなメキシコ」で展示されている。 展示された宗教画は「聖母子像」(2点)、「聖母像」、「聖者像」、「キリストを抱く聖人」など8点で、いずれも16世紀の作と思われるが、作者不詳の作品だ。

 このうちの「聖母子像」の聖母は2点とも目鼻立ちが整っていて「聖母子の画家」とも呼ばれるラファエロの作品『システィーナの聖母』に共通する印象を受けた。スペイン人によって、ペルーの人々はカトリックへの改宗を迫られた。宗教画が広まったのもそうした背景があったのだろう。 

 だが、インカの末裔であるペルークスコ派の画家たちは、改宗後もアンデス信仰を持ち続けたのだろう。それが聖母の着ている衣装に表れているとする見方がある。ペルーでは「アプ」といわれる山の神や「パチャママ」という大地の女神信仰があり、聖母の衣装はこれらへの信仰を示しているのか、山のような形をしているのだ。また太陽神を示す金箔も、聖母の衣装や装飾類に使われているのが目に付く。

 藤田がパリを出発し、シェルブールからの船に乗り中南米へと出発した旅行したのは1931年10月で、ブラジルを皮切りにアルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコと約7カ月にわたる旅を続ける。ペルーでは宗教画に接し、メキシコでは壁画運動に触れた旅だった。

 同行したのは、マドレーヌ・ルクーという踊り子兼歌手で、旅の途中、2人は結婚するが、日本にやってきたマドレーヌは1936年6月、東京・戸塚の藤田のアトリエで急死した。秋田の資産家で藤田と知り合いだった平野政吉が、マドレーヌ追悼のためにと美術館建設を藤田に提案、その美術館のために藤田が描いたのが「秋田の行事」(現在、県立美術館に常設展示)の壁画だった。

 それにしても、ペルーの宗教画を描いた画家たちは、長い年月を経て、地球の裏側で自分の絵が展示されようとは思いもつかなかったに違いない。

 藤田の生涯を描いた映画『FOUJITA』(小栗康平監督、主演オダギリジョー)が、11月14日から上映されるという。

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 写真はクスコの街の風景

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