小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1983 『叫び』に込めた本音 ムンクの不条理の世界今も

 

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 コロナ禍によって「うつ状態」が蔓延している日本で、自殺者が増えている。こんな時代を代弁したようなエドヴァルド・ムンク(1863~1944)の絵。だれしもが『叫び』を思い起こすだろう。以前、この絵をノルウェーオスロ国立美術館で見たことがある。91 センチ× 73.5 センチの油彩画(1893年制作)だ。この絵には「狂人だけが描ける絵だ」という、肉眼では見えない鉛筆による小さな走り書きが残されていた。この書き込みは、画家自身によるものだったことが分かったというニュースを読んだ。どんな思いでムンクはこの書き込みをしたのだろうか。    

  書き込みは左上の赤い雲の部分にある。「20世紀初頭にこの絵を見て不満を持った人が書いたのではないか」などムンク以外の人物が書いたのではないかとの見方もあったが、真相は分かっていなかった。最近になって国立美術館の専門家らが赤外線カメラを使って文字を解析した結果、ムンクの筆跡と完全に一致したため画家自身が書いたものだと断定したという。  

  国立美術館の担当者は、1895年にオスロのギャラリーで開催された個展の後に書かれたものではないかと推測しているそうだ。この展示についてオスロ大学で討論会があり、医学生の1人がムンクを「異常者」「狂人」などと批判したといわれ、ひどく傷ついたムンクがこの言葉を書き入れ、批判に耐えようとしたのではないか、というのが担当者の見方である。  

  私はゴッホピカソなら、どんなことを書いただろうかと想像する。「これは私にしか描けない絵だ」という自信、あるいは「一人だけでも理解してもらえればいい」という控えめな書き込みか……。ムンクムンクなりに本音を書き入れたのだろうと思う。  

  ムンクは前半生、死と狂気と不安につきまとわれながら傑作を生み出した。45歳の時に精神病院に入院、心身の健康を取り戻して80歳まで生きる。皮肉なことに退院後は見るべき作品を残していない。美術史家の中野京子は、ムンクの絵に関して「病める魂が鎮まるとともに、ムンクの天才も消えてしまったのだ。精神の死である狂気を恐れていた間は表現が可能だったのに、その必要がなくなったとたん芸術の死を迎えるはめになった(幸か不幸か……)(『怖い絵』角川文庫)」と分析している。「病める魂」を抱えながらユトリロゴッホも優れた作品を描き、後世に名を残した。

  ムンクは『叫び』を複数枚描いた。書き込みがあったオスロ国立美術館所蔵の油彩画のほか、オスロムンク美術館所蔵のテンペラ画とパステル画(1893年版)とリトグラフノルウェー人実業家のペッター・オルセンが所蔵し2012年5月2日に米国ニューヨークで競売にかけられ、1億1990万ドル(日本円で約96億円)で落札されたパステル画(1895年版)の5点はよく知られている。

 『叫び』は盗難にも遭っている。オスロ国立美術館所蔵の油彩画はリレハンメル冬季五輪開会式当日の1994年2月14日に盗まれ、ロンドン警視庁美術特捜班の捜査で同年5月に犯人を逮捕、絵も取り戻した。この事件はエドワード・ドルニック著、河野純治訳『ムンクを追え!』(光文社)というノンフィクション作品になった。ムンク美術館に収蔵されていたテンペラ画も、油彩画『マドンナ』とともに2004年8月22日に盗まれ、2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見されている。  

  第2次大戦中の1943年12月12日、ノルウェーに侵攻したナチス・ドイツの軍爆薬倉庫がレジスタンスの破壊工作によって爆発、ムンクのアトリエの窓ガラスが吹き飛ばされた。ナチスの侵攻を憎み、その崩壊を待ち望んでいたムンクは、この爆発によって部屋に寒気が入り込んだため気管支炎にかかり、1944年1月23日に亡くなった。ヒトラーが自殺しドイツが連合国に無条件降伏をしたのは、ムンクの死から4カ月に満たない5月8日のことだった。  

 私が『叫び』の絵を見たのは2011年の9月だった。言うまでもなく、この半年前の3月11日、私たちは東日本大震災に遭遇した。あれから10年。世界も日本も『叫び』に描かれたような、死と狂気と不安という不条理の日々が続いている。  

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 写真 1、ムンクの絵のように赤く染まった空(朝焼けの東の空です)2、オスロ国立美術館「叫び」3、ノルウェーフィヨルドの風景  

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