小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1696 落語で聞いた特攻の母 鎮魂と祈りの季節に

画像

 桂竹丸の「ホタルの母」という落語を聞いた。これが落語かと思った。それは創作落語で語り継ぐ戦争。「特攻」の「ホタルの母」だった。舞台は鹿児島知覧。太平洋戦争末期、本来なら日本の将来を担う若者たちがここから特攻機に乗り込み、尊い命を失った。この若者たちを支えた女性がいた。それがこの落語の主人公の鳥濱トメさんだ。実話を基にした落語は、涙なしには聞くことができなかった。  

 トメさんと少年たちの交流は、トメさんの娘の礼子さんが書いた『ホタル帰る』(草思社文庫)で知られている。この本を原作に、映画にもなった。飛行学校があった知覧の町で食堂を営んでいたトメさんの店には、休みになると飛行訓練を続ける少年たちがやってくる(知覧には1941年に陸軍知覧飛行場が造られている)。トメさんはこの少年たちを自分の子どものように接する。  

 時が過ぎ、太平洋戦争は絶望的状況になり、軍上層部は特攻という人間の命を犠牲にする無謀な作戦を始める。まさに愚行だった。知覧飛行場はその出撃拠点になった。そして、以前知り合った少年たちはたくましい若者になり、トメさんの前に現れる。次々に別れにきたのだ。

 そんなある日、明日出撃するという宮川という軍曹のために手料理を作っている時空襲警報がなり、トメさんや宮川らは防空壕に逃げ込んだ。警報が解除され表に出ると、無数のホタルが飛んでいた。それを見た宮川は「俺は死んだらホタルになって帰ってくるからね」と言って去っていった。それからしばらくして、トメさんの食堂に一匹のホタルが入ってくる。それはこの世を去った宮川が帰ってきたとトメさんは思い、人前では決して見せない涙、それも大粒の涙を流したのだ。  

 知覧からの特攻出撃は2カ月間続き、439人の若者がこの世から消えた。何回もの8月15日を送った後の1987(昭和62)年2月、知覧に「特攻平和会館」が開館した。トメさんは85歳。車椅子姿でオープン式典に穏やかな顔で列席したという。   

 桂竹丸は鹿児島県鹿屋市出身だ。知覧のある南九州市は鹿児島湾(錦江湾)を挟んで対岸にある。彼がどのようなきっかけでこうした悲劇をテーマにしたかは分からない。だが、前途ある若い命を奪った戦争、そして人の命を虫けらのように軽んじた軍部の非人間性に対する激しい怒りが背景にあると思われる。戦争は人間を残酷にさせることは、歴史が証明している。それを封印させる力を持つのもトメさんのような優しい人間なのだ。愚かな戦争を繰り返さないためにも、桂竹丸のこの落語を多くの人に聞いてほしいと思う。  

 8月は祈りと鎮魂の季節である。だが、この国の首相は毎夜のように飽食を繰り返す日々を送っている。これでは、若くして命を散らした特攻の若者たちも浮かばれまい。

「特攻とはまことに非人間的な戦術で、たとへば特攻機『桜花』はありていに言へば人間爆弾にすぎない。日本軍上層部の、体面を重んじる官僚主義が最も悪質な形で発揮されたとき、年少者や民衆にこんな形での抗戦を強昼発想が生まれた」(作家で評論家、丸谷才『星のあひびき』より)

画像

 

 写真。昨日の夕焼け。このような美しい風景を、知覧から空へと消えた若者たちも見たに違いない。