小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

702 「今日われ生きてあり」特攻は統率の外道

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 あとがきや解説から読み始めるのは邪道と知りつつ、解説がついている文庫本はつい後ろから読んでしまうことがある。この本の解説を書いた高田宏の作品には資料をじっくりと調べたものが多く、この解説も高田らしく冷静に筆を進めるものかと思ったが、そうではなかった。

「解説のできる本ではない」という書き出しからして、この本に対する感情の高まりを感じたが、その通りだった。最近、「永遠のゼロ」、「五十年目の日章旗」、「終わらざる夏」という3冊の戦争をテーマにした小説(五十年目の日章旗はノンフィクションに近いが)を続けて読んだ。

 2冊目と3冊目は太平洋戦争当時の事実を基に、戦争の実相を伝えようとする作者の意図が心に奥深く染み込む作品だった。(永遠のゼロは推薦できる本ではない)  神坂次郎の作品は、特攻隊員を扱ったノンフィクションであり、「統率の外道」(神坂の表現)という無謀な作戦で散って行った若者たちの姿を、日記や彼らを見送った人たちの話(19話)を通じて描き出している。

 特攻作戦は太平洋戦争末期に考案された作戦で、神坂は「特攻は戦術ではない。指揮官の無能、堕落を示す“統率の外道”である」(15話)と、厳しく批判している。これは「たくさんの言葉をのみこみ、押さえこんで、言葉すくなく峻烈に語られた一行だ」(高田の解説より)  

 当時、特攻隊員は神のように国民の喝采を浴びた。にもかかわらず、終戦後は手のひらを返すように批判の対象になった。そして、終戦から65年。純真なままに自らの身をささげた少年、青年たちは歴史の中に埋没しつつある。しかし――。

 神坂は4年にわたって、特攻隊員の遺族や関係者にインタビューし、この本を書いた。基本的には著者自身の言葉は少ない。しかし特攻を「外道」とする見方に加えて、若者たちを裏切った高官たちへの筆遣いは峻烈だ。

「特攻の若者たちを石つぶてのごとく修羅に投げ込み、戦況不利とみるや戦線を遁走した四航軍の将軍や参謀たちが戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿……」。

 先のブログ「50年目の日章旗」でインパール作戦牟田口廉也という無責任司令官のことを書いたが、こういう高官たちによって、多くの有為な命が失われたのである。 「雲ながれゆく」(第10話)には、4人兄弟が全員戦死・殉職し、母親一人だけ残された話が紹介されている。

 浦和市に住んでいた母親は戦後、世間の罵倒、雑言に浴びせられ、外出ができなくなる。しかも追い打ちをかけるように軍人恩給が廃止になり、家屋敷を手放した母親は長い入院生活の末亡くなる。息を引き取る間際、母親はいままで胸の奥にためていた思いを一気に吐き出すように激しく吐血したという。こんな話を聞いた神坂の怒りが、遁走した高官たちに向けられたのは間違いない。  

 かつて福島県原ノ町には陸軍の航空基地があった。この基地には戦争末期、少年航空兵がいて、外出のたびに牛乳店の店先を借りて弁当を広げて食べる光景があったという。その少年たちは、全員が特攻隊員として、短い生涯を閉じるのだが、彼らの手紙と少年たちを見守った女性の日記を紹介した16話「惜別の唄」も心に残った。  

 岐阜県多治見市出身の川口という少尉は、女性の家に遊びに来ると、必ず郡上八幡の盆唄を歌った。それは彼女には哀愁を帯びたものに聞こえた。女性は戦後だいぶ経て、地元新聞に川口の思い出を随筆の中で書き「後にラジオで聞いたこの唄は明るい節回しだった。しかし私にとっての郡上節は、彼の歌ったもののほかにはない。沖縄戦で特攻隊員として死んだ彼の口に出せない思いをたくした別れの唄なのだ」と、記している。

 高田と同じように、感情の高ぶりを抑えることができず、平静に読み続けることは不可能だった。電車の中でふと目を上げると周りにいる若者たちは携帯電話の画面を見続けている。戦争を知らない若者たちには、こうした本とは無縁なのかもしれない。しかし彼ら、彼女たちがこの本を読んでどう思うのか聞いてみたい誘惑にかられる。わずか65年前に、このような形で死んでいった多くの若者がいたことを忘れてはなるまいと思うからだ。