小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1649 病床で見たゴッホの原色の風景  友人の骨髄移植体験記

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 若い友人が「急性リンパ性白血病」を克服した体験記を書きました。この文章の中にはいくつかの「物語」が凝縮されています。私は心を打たれ、泣きました。

 かつてこのブログで、小児がんのため幼くしてこの世を去った石川福美ちゃんのことを取り上げたことがあります。元気だったなら18歳になっていたはずの福美ちゃんのことを思い出しながら、闘病記を読みました。

 福美ちゃんも、天国から筆者の若い友人のことを見守ってくれているに違いないでしょう。病気と苦闘し克服した体験記からは、生きる喜びが伝わってきます。多くの人に読んでほしいと願い、以下に掲載します。

 

「色のない病室で私を救ったいくつかのもの」

(神奈川骨髄移植を考える会 会報「虹」VOL150より。原文のまま、小見出しはブログ筆者)

  ▽健康が取り柄だったのに

「患者体験談を書いてもらえませんか」そう言われたのは、クリスマスも近い年の瀬のこと。当時の日記や治療経過資料を元にすれば何とかなるか、と気楽な気持ちで引き受けた。しかし、6年前の自分と向き合うのは容易ではなかった。

 まず、私は元々患者ではなかったことを申し上げたい。ドナー登録説明員として活動する便宜上「元患者」が肩書のようになっているが、本当は言いたくはない。子供の頃は風邪にもインフルエンザにもかからず元気いっぱいであった。学生時代は運動部に所属、地区大会で優勝し東京代表になった。治療中「心臓が強いですね」と言われ「健康が取り柄なんです」と、笑顔で応えた。唖然とする主治医を見て、私は自分が患者であることを自覚したのである。

 「急性リンパ性白血病」と診断されたのは、2012年4月。ゴールデンウイーク前の穏やかな日だった。ひどい貧血のため、すぐに輸血が始まった。本来なら即入院のところ、空きベッドがないため家に帰されることになった。一晩、家に帰ることができるとは、なんて幸せだろう! 輸血を終えて病院の外に出ると、昼の穏やかさから一転、前が見えないほどの激しい雨が降っている。義両親が車で迎えに来ていた。義父は無言で微笑み、義母は駆け寄って私の手を握った。全体の治療は、5期にわたる化学療法と骨髄移植である。

  最初の化学療法「寛解導入」は、準無菌室にて1か月半ほど。ステロイドと5種類の抗がん剤を大量投与され、体はまったく動かなくなった。時々、東日本大震災(2011.3.11)の余震が起こった。有事の際、自分は真っ先に死ぬのだろうと思った。テレビのニュース番組では、金環日食に湧く人々の様子が流れていた。

  抗がん剤オンコビンの副作用で、指先の感覚を失った。幼い頃から習ってきたヴァイオリンが弾けるか心配になり、看護師に聞いた。「指は元に戻りますか? 私はヴァイオリンを弾くのですが」「それはもう無理だと思います」「まさか、2度と弾けないなんてことはないでしょう」 私が笑うと、看護師は黙って首を振った。

  ▽院内感染で命の危険に

  寛解は成功した。しかし、移植は必要だという。都内のセカンドオピニオン、九州のサードオピニオンでも同じ診断結果であった。家族とは白血球のHLA型が合わず、骨髄バンクに登録した。移植前に卵子を保存するか否か、選択しなければならない。治療は選択の連続である。第2期の化学療法では命の危険にさらされた。副作用で白血球数がゼロに近い中、院内感染により肺炎を発症したのである。仕事中の夫が呼び出された。

「会話ができるのは今晩が最後でしょう」医師は無表情のまま、説明を続けた。「集中治療室へ移動し、喉に穴を開けて呼吸器をつけます。もし肺炎が治ったとしても、白血球数増加に伴って多臓器不全になるでしょう。白血病治療はここまでです」

  その時私は、男泣きする夫を初めて見た。この人にこんな顔をさせてはいけない。なかなか帰ろうとしない夫を無理やり家に帰し、私は私の闘いをすると決めた。自分にできる最善は、その夜を生き抜くことである。その後、41度超の熱が2週間続いた。熱が上がる時、私の体は紫色に変化したという。そばで見ていた夫はどんなに恐ろしかっただろう。私は命を取り留めた。当時、もっとも強いと言われた抗生剤バンコマイシンのおかげである。(現在はさらに強力な抗生剤があるらしい)しつこく襲いかかるサイトメガロウィルスのため入院期間は伸びたものの、その後の白血病治療に影響がなかったことは奇跡的であった。

  ▽シューベルトを聴きながら

  このころの私を勇気づけたのは、ロンドンオリンピック。選手たちの涙や美しさに心が震え、生きて次のオリンピックも見たいと思った。これを書いている今は、冬季平昌オリンピックが開催している。選手たちに「感動をありがとう」と伝えたいのは、私だけではないと思う。

  話を元に戻そう。肺炎の危機から脱する頃、5人のドナー候補者が選出されたことを聞いた。ただし、すべての型が一致するのは1人だけだという。主治医は言葉を選びながらも、感触としては悪くない、というようなことを言った。夫と相談し、卵子は保存しないことに決めた。骨髄移植の日は2013年の大寒の時期と決まった。唯一のドナー候補者、24歳(当時)の男性がすぐに行動を起こしてくれていたのである。

  一時退院中に年末年始を家で過ごすことが出来たのは、幸運だった。体は不自由でほとんど歩くことができず、おばあさんのように動きは遅く、食べるものも限られている。しかし、夫は面白いことを言って一日一回笑わせてくれる。主治医以外、家族にも友人にも内緒で、夫婦で旅行をした。「移植なんかやめて2人で逃げちゃおうか」という夫の言葉が忘れられない。私は初めて泣いた。子供もできず、迷惑ばかりかけてごめん、と。

  いよいよ骨髄移植。抗がん剤放射線による前処置は4日間かけて行われた。もっとも辛い時期、アメリカ・ヒューストンから星出宇宙飛行士の写真とサインが届いた。宇宙好きな私の為に、知人を通じてJAXA の方々が動いてくれたのである。また、難病であるピアニストの友人が、自ら演奏と録音をしたCDも届いた。病のために筋力が衰えベストな演奏ではないと彼女は言ったが、私は大勢の医師や看護師、家族とともにそのシューベルトを聴きながら移植にのぞんだ

  隣室には生後10カ月の男の子がいた。首から挿入された点滴用の針は、体が小さいために腕にまで到達している。「生」を主張する命の塊のような泣き声に、何度励まされただろう。心の中で、今日も元気いっぱい泣いてるね、と語りかけた。新しい骨髄が入ると、顔面が崩壊し、手の平や足の裏の皮膚が剥がれた。ろれつが回らず、手は震え、食べることも飲むこともできない。「外からは見えないけれど、体内ではものすごいダイナミズムが起こっているんですよ」と、医師は言った。

  ▽色彩に満ちた風景、そして私の宝物

  ゴッホの絵のような幻覚を見た。めくるめく原色の世界。モルヒネ離脱症状ではないだろうか(臨床報告がないと医師は否定するが)。色のない完全無菌室において、有り難いくらいの芸術であった。

  夫は毎日、仕事帰りに見舞いに来た。滅菌のため一枚一枚、アイロンがけしたタオルや着替えを持ってくる。約1年に及ぶ入院期間のうち夫が来られなかったのは、サードオピニオンのため日帰りで九州へ行った時と、自身の体調不良で無菌室に入室できなかった時の2回である。ひどい寝不足と疲れのために、病室やロビーで寝てしまうことも少なくなかった。桜が咲く頃、すべての治療が終わった。理学療法士の方に付き添われ、久しぶりに病院の外へ出る。雨上がりの澄んだ空気。海から吹く柔らかく湿った風。世界は色彩に満ちていた。

 退院後、ドナーの男性に感謝の手紙を送った。まもなく、丁寧な文字で書かれた三枚の手紙が届いた。20歳でドナー登録をした決意、候補者となってから提供にいたるまで、そして見ず知らずの私への激励の言葉……。私は、この手紙を星出宇宙飛行士の写真とともに額に入れ、宝物として今も大切に飾っている。

  ヴァイオリンは、一からやり直すつもりでレッスンに通った。そして移植の翌年、音楽を届けてくれたピアニストの友人とともに発表の舞台に立った。温かく小さな音楽会。指の感覚は完全に元に戻った。これを機に、私は今も音楽活動を続けている。また昨年、音楽と兄弟間の移植を描いた小説『雨音のプレガンド』を執筆。「プレガンド」とは「祈るように」という音楽用語である。私を救うため行動を起こしてくれた全ての方への感謝と、今も病気と闘う方々への祈りをこめて。

              (ペンネーム:毛津アルト 2018.2.22)

  写真はニュージーランド南島クライストチャーチにて

 

1356 福美ちゃんへ 《悲しみを経て》

 

1623 絶望の淵に立たされても 2つのエピソード