小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1638 幻の仏師の名作を見る 柔和な平等院の阿弥陀如来像

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 仏像を制作する人のことを仏師と呼ぶ。仏師といえば運慶、快慶はよく知られている。では、定朝(じょうちょう)はどうだろう。定朝作の仏像を見る機会はほとんどないから、運慶、快慶に比べると知名度は低いかもしれない。。唯一、京都宇治の世界遺産平等院鳳凰堂阿弥陀堂)の国宝、阿弥陀如来坐像が現存する作品なのだという。伏見稲荷から平等院に足を伸ばした私は、定朝の指揮で木造の巨大仏像づくりに精を出す仏師たちの姿を想像しながら、柔和な顔の阿弥陀如来像を見上げた。  

 定朝は平安中期の仏師で、法成寺(ほうじょうじ・かつて京都鴨川の西辺、荒神口の北にあったが、鎌倉時代末期に廃絶になった)金堂の仏像群を造像した恩賞として仏師として初めて法橋(ほっきょう=僧の位。法印・法眼に次ぐ)になった人物だ。平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像は、像高が277・2センチで1053(天喜元)年に完成した木造の寄木造りの作品だ。木材を材料にした仏像を制作する場合、頭の部分など主要部分を1本の木から彫り出す一木造りと主要部分を複数の材料を使って完成させる寄木造りの2つの方法があり、寄木造りは平安時代後期に完成された技法で、巨像の大量需要に応えるために考案されたのだという。  

 一方、一木造りである福島会津勝常寺の国宝、薬師三尊像の本尊、薬師如来坐像は像高も141・8センチと鳳凰堂の阿弥陀如来像に比べ小ぶりである。それは1本の木を根幹部分の材料にするのだから当然だ。  

 阿弥陀如来が安置されている鳳凰堂は、10円硬貨にも使われる美しい建物だ。平安時代末法思想(釈迦の入滅後年代がたつにつれて正しい教法が衰滅するという 仏教の歴史観。正法、像法の時代を経て末法に入り、社会に混乱が起こると考えられた)によって、建立された。阿字池を挟んで対岸から鳳凰堂を見ると、格子越しにかすかに阿弥陀如来像が見える。鳳凰堂を背景に多くの外国人が写真を写している。ただ、阿弥陀如来像を目当てに望遠レンズを向けているのは、ほぼ間違いなく日本人だ。外国人には美しい建物に興味があっても、その中の仏像に惹かれる人は少ないのだろうか。  

 伏見稲荷の最寄り駅であるJR奈良線稲荷駅から電車に乗る際、ホームで若い外国人女性から「宇治に行くにはこの電車に乗ればいいのか」と聞かれ、「そうです」と答えた。その女性は平等院の中でも何度も見かけた。しかし、鳳凰堂の中には入ってこなかった。チケットを買って指定された時間に中に入ったが、外国人はほとんど見かけなかった。しかも説明は日本語だけだから、日本語が分からない外国人には理解できない。世界遺産にしてはサービスが足りない。  

 それにしても、定朝の作品として鳳凰堂の阿弥陀如来坐像だけが今日までなぜ残ったのだろうか。それは京都、奈良の歴史と切り離して考えることはできない。2つの古都は幾度となく戦乱、火災に見舞われた。そのために定朝作品だけでなく多くの仏像はいつしか消えてしまったのだ。だが、宇治は京都の中心部から離れているという地の利に恵まれ、しかも火災に遭うこともなく今日までその姿をとどめることができたのだという。その意味でもこの阿弥陀像は強運の仏像といえる。そんなことを英文のパンフに書けば、外国人観光客も興味を示すのではないだろうか。  

 平等院を出て宇治川にかかる宇治橋を歩いた。風は冷たく、川の流れは速い。鳳凰堂がつくられてから約130年後の1184(寿永3)年、歴史上よく知られる、源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼源義経による宇治川の戦いが起きた。両軍の兵士たちは、この近くに巨大な阿弥陀如来坐像があることを知っていたのだろうか。いま、それを知るすべはない。

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写真 1、平等院鳳凰堂2、鳳凰堂の阿弥陀如来像3、平等院の宝物を展示する鳳翔館4、宇治橋から見た宇治川

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