小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1739 一筋の道を歩んだ運慶 史実とフィクションを考える

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 奈良東大寺盧舎那仏奈良の大仏)だけでなく、南大門の金剛力士立像(向かって左が阿形=あぎょう、右が吽形=うんぎょう)もよく知られている。この二王像は運慶・快慶(運慶の兄弟子)らによる鎌倉彫刻の傑作といわれる。梓澤要(本名・永田道子)の『荒仏師運慶』(新潮文庫)には、この二王像制作過程だけでなく、仏師として一筋の道を歩んだ運慶の生涯が活写されている。現代でも弛みなく一筋の道を進んでいる人は少なくないだろう。私の周囲にもそんな知人が存在する。  

 運慶は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて興福寺を中心に活動した仏師・康慶の子として生まれ、父の跡を継いで「慶派」一門を率いる大仏師になった。鎌倉幕府との関係も良好で、仏師としての力量は全国に知られるようになる。平氏の焼き討ちで壊滅的打撃を受けた東大寺の再建に心血を注いだ重源上人の依頼で二王像も制作する。 

 『仏教新発見 東大寺』(朝日新聞出版)にある二王像の写真を改めて見た。躍動感、存在感は圧倒的で「慶派」の力を示した作品といえる。従来はその作風から口を開いた阿形が快慶、口を結んだ吽形が運慶作とされてきた。しかし、1991年の解体修理の際、像内から墨書銘が発見され、阿形像は運慶と快慶が、吽形像は定覚(運慶の弟)と湛慶(運慶の長男)が中心になり、仏師を率いて作ったことが判明した。両像の制作を「慶派」が担当していることから、運慶は全体の総指揮(統括)も当たったと考えられている。  

 だが、梓澤は小説の中で阿形は快慶と定覚が、吽形は運慶と湛慶が中心になったという従来説に沿った形で物語を進めている。そして完成した二王像に関する運慶自身の見方について、以下のように記している。

「(自分が制作した)吽形像は思いどおりに仕上がった。満足のいく出来だ。波打つように盛り上がる筋肉、誇張した表情。無理にからだをねじったアクの強さが迫力と緊張感になった。ムッと口を引き結び、下腹に力を溜め込んでいる。手にした金剛杖を振り下ろし、もう一方の手は敵につかみかからんばかりに振り上げて威嚇している。思う存分暴れ終わった直後。まさに、『ウン』のかたちだ」

「方や阿形は、『ア』。大きく口を開けて声を発し、これからまさに動き出す寸前だ。だが、いまひとつ躍動感に乏しい。全身に溜め込んでいた力を一気に吐き出す、その瞬間の凝縮が感じられない。力の塊が見えない。快慶はわたしの指図に忠実に従いながら、しかし、快慶らしさ、自分らしさを頑として捨てなかった。(中略)丹念に整理され、乱れや誇張を排した表現、腰を覆う衣の襞の彫りは浅く、筋肉の盛り上がりやうねりも大げさではない。みぞおちに鎖状に連なる筋肉の隆起も、不要とみたか、削ってしまっている。まさに快慶の好みだ」   

 フィクションとして従来説を採用し、史実と異なる見方で描いているわけだろう。両像の違いは梓澤の記述の通りだが、運慶と快慶が一緒に阿形を制作したという史実に沿った場合、両者の葛藤がどんなものだったか、想像する。「慶派」を率いるとはいえ、運慶が兄弟子の快慶に遠慮し、快慶の制作姿勢を認めた結果が阿形の形になったのだろう、などと考える。  

 この本では、実際には作者不明とされる重源上人座像(国宝)についても、運慶が制作したというストーリーにしている。歴史上の人物を扱ったフィクションで、史実をどこまで超えることが許されるのだろうか。小説を読み終えてそれが気になり、かなり考えさせられた。だが、私自身の結論は出ていない。  運慶が死んだのは貞応2年12月11日(1224年1月3日)で、794年前のことである。仏師という職人として一筋の道を歩んだ運慶は、快慶とともに後世まで名を残した。やはり、傑出した職人だった。いまでは芸術家といっていい。

 1638 幻の仏師の名作を見る 柔和な平等院の阿弥陀如来像