小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1637 敵意を持った人間の息は トルストイの民話から

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  ロシアの文豪、レフ・トルストイ(1829~1910)は、童話とはやや異なる民話を幾つか残している。その中の1つに『人は何で生きるか』がある。神様の命令に背いて地上に落とされてしまった天使、ミハイルが、靴屋セミョーンと女房のマトリョーナら、出会った人間によって3つのことを学ぶという物語だ。この小品に関し、人間の敵意についてのトルストイの描写がいまも心に残っている。  

 それはこんな場面である。地上に落とされ、裸で教会の外にうずくまるミハイルを見つけたセミョーンが一度は躊躇しながら、家に連れ帰ると、マトリョーナは嫌悪するのだ。だが……。のちにミハイルは、このときのマトリョーナについて「おそろしい形相をしていましたーその口からは死の息がもれていました。で、わたしは腐ったような死の息のために呼吸ができないくらいでした」(新潮社『世界名作選』中村白葉訳より)と振り返る。  

 このように、トルストイはミハイルの口を借りて、人間は憎悪心を抱くと、「死の息」を漏らすと書く。最近の新聞を読んでいると、そんな息を吐いているような人たちが多数出てくる。例えば森友学園に絡む財務省の国有地売却に関する決裁文書改ざん問題の国会質問(参院予算委)で、若手議員が財務省の理財局長に対し侮辱とも取れる発言をした。また、過労死の遺族が出席した参院予算委中央公聴会では元外食産業オーナー議員が「週休7日が人間にとって幸せなのか」と語った。2人とも自民党議員で、同党が理事会でこの発言の削除を求め国会の会議録から削除したという。  

 名古屋の中学校で前川喜平前文部科学事務次官が行った授業内容を文部科学省が調査していた問題も、トルストイ流にいえば死の息が漂っているのではないか。自民党の2人の国会議員の介在が明らかになっているが、自分たちの意に沿わない者は容赦しないという危険な考え方が、これらの問題の背景にあるのだろう。    

 天使ミハイルはセミョーンとマトリョーナに出会った当初、ともに死相をし、死の息を吐いていたと述べている。しかし、2人はすぐに考えを変えミハイルに優しく接するようになり、ミハイルは2人の中に神を見る。この作品は天使と貧しい人々との交流を通じて、人の生き方を問うもので「死の息がもれる」や「人間には知る力が与えられていない」(人間はいつ死ぬか分からないという意味)」というミハイルの言葉はとても重い。  

 天使ミハイルが地上で学んだ3つとは①人の中にあるものは何か=愛②人に与えられていないものは何か=いつ死ぬか分からない③人は何で生きるか=愛の力―である。 写真、降り積もった雪も少しずつ融け始めた山形の風景(板垣光昭氏撮影)