小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1626 歴史への旅 天平の傑作「葛井寺・千手観音坐像」を見る

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 人は仏像を見ながら、何を思うのだろう。2月14日から東京国立博物館平成館で始まった「仁和寺と御室派のみほとけ ――天平真言密教の名宝――」特別展を見た。特別展には、天平時代に当時の唐(中国)から伝わった今では珍しい「脱乾漆造」の千手観音が展示されていた。そういえば奈良・唐招提寺を創建した鑑真和上は天平期に苦難の末、日本にやってきた唐の高僧で、唐招提寺の本尊盧遮那仏坐像もやはり脱乾漆造である。2つの仏像は何らかの縁があるのだろうか。私は遥か昔に仏像づくりに励んだ人たちを思い、また3・11の犠牲者の霊安かれと願いながら像の前にたたずんだ。

 仁和寺京都府右京区御室にあり、宇多天皇時代が888(仁和4)年に完成した真言密教の寺院である。出家した天皇が室(庵)に住んだことから「御室」と呼ばれるようになった。仁和寺を総本山に、全国790の寺で形成される真言宗の派が御室派といわれ、大阪・藤井寺市葛井寺(ふじいでら、寺伝によると、創建は725=神亀2年)もその1つだ。葛井寺には国宝千手観音菩薩坐像(像高150センチ)があり、この特別展の中で入館者が特に立ち止まる時間が長い仏像だった。  

 千手観音は正式には「千手千眼観自在菩薩」といい、千の手と千の目を持った観音のことだが、実際には42本の手(合掌した2本手以外に40本)を持つ仏像がほとんどという。葛井寺の仏像は奈良時代後期(天平)に制作され(寺伝によると、唐の仏工・稽文会、稽首勲父子が制作)、1041本の手(合掌する両手とは別に大手が40本、小手が1001本)がある。博物館のパンフには「千本以上の手を持つ千手観音像は、本像しか確認されていない」と書かれており、非常に珍しい仏像なのだ。40本の大手は髑髏(どくろ)を持ったり、小さな仏を掌に載せたりしている。後世に手を加えられたのだというが、いつ、だれがこのようなことを考えたのだろうか。藤原広嗣の乱の鎮圧が像制作の目的だという説もあるが、手を合わせて祈る姿の仏像の顔は気品が伝わる。

 日本の仏像の8割はヒノキ、クスノキケヤキ、カツラ、カヤ、センダンなどの木を使った一木造(仏像の主要部分を1本の木から彫り出す)、あるいは寄木造(主要部分を複数の木材を使って仕上げる)だ。しかし、葛井寺千手観音菩薩坐像は「脱乾漆造」といわれる中国伝来の技法で、粘土で仏像の原形を造った上に麻布を張り、木屑を混ぜた漆で固めて像を形成する。この技法は天平時代半ばに限って用いられた。しかし、材料が高価で技法も複雑なため長く続かず、しかも湿気や乾燥に弱いため、この技法による仏像が現存するのは、まれという。  

 唐招提寺には本尊のほかにも脱乾漆造の国宝鑑真和上像があり、この技法が鑑真の日本への渡航とともに伝わったのかもしれない。私は以前、鑑真が日本渡航前に住職を務めていた揚州の大明寺を訪問したことがある。ここには唐招提寺から鑑真和上像が一時里帰りし、当時はその摸像が展示されていた。仏像は信仰の対象であり、美術品でもあるが、模造の鑑真和上像自体も現地の人たちには信仰の対象として大切にされていた。

 仏教美術専門家の田中義恭氏は仏像鑑賞について、じっくり時間をかける習慣をつけることを勧めている。とはいえ、混雑した美術館や博物館に展示された仏像を見る際、時間をかけすぎることは迷惑行為だ。ただ、この日は開催初日のためか混雑度もそうひどくはなく、千手観音菩薩坐像の周囲には多くの人が立ち止まっていた。千本の手が異なるように、各人各様それぞれの思いで見入っているのだろう。その顔々は、この世の憂いから解放されているように見えた。(展示物には仁和寺の国宝・薬師如来坐像阿弥陀三尊像、大阪道明寺の国宝・十一面観音菩薩立像もあり、これらも見過ごすことはできない)

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 写真 1、東京国立博物館正面横に展示された案内(右が葛井寺千手観音菩薩坐像) 2、江戸時代に再建された仁和寺観音堂の再現(この展示室は写真撮影可だった)

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