小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1632 常識について思うこと 政治に必要なのはモラルと思想

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 改定された第7版の広辞苑(岩波書店)で「常識」という言葉を引くと、「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない、一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などをふくむ」という解説に加え「森鴎外、自彊不息「――は普通の事理を解し適宜の処置をなす能力なり」という言葉も出ている。なぜ辞書を引く気になったのかといえば、最近、常識外のことがあまりにも目立つからだ。  

 私が東京に本社を持つ報道機関(通信社)に入り、地方支局で社会人としてスタートした当時、常識にうるさい支局長がいた。この人は、いつも新刊本を数冊持って出勤し、その内容を私と顔を会わせる度に教えるのだ。本は文学をはじめ多岐にわたっていて、口癖は「常識を持て」だった。ものの見方や社会人としての行動も常識が基準になると強く教えられた。しかし、生来斜に構えることが多い私は、なかなか常識が身につかず、叱責されることが少なくなかった。

「常識」について、三省堂の『新明解国語辞典』には「健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)、ごく普通の知識・判断力」とある。「健全な社会人」とはどんな基準で言うのか分からないが、一考に値する。なかなか常識的行動を取ることができずにかつて上司や先輩を悩まし続けた私にとって、いまでも「常識を持て」の言葉が頭を離れない。  

 そんな私でも、昨今の政治状況は非常識すぎると思うのだ。鴎外の言う「普通の事理を解し適宜の処置をなす能力」を持っているはずの人たちが、その枠から故意に外れているとしか思えない。中でも目に余るのは働き方改革の目玉だった裁量労働制をめぐる厚生労働省の不適切データ提出と撤回、森友学園問題をめぐる財務省の決済文書改ざん疑惑である。その内容はここでは省くが、いずれにしても高い判断力を持ち、思慮分別が深いと思われる官僚たちが非常識的行動を取っていることに危惧を抱くのは私だけではないだろう。  

 憲法第15条で、公務員は国民全体の奉仕者であると規定されている。しかし、昨今は政権の顔色をうかがうことに終始し、一部の権力者にのみ奉仕する常識外の行動を取っている官僚が少なくない。その代表格は、森友問題で交渉記録は破棄した(財務省はことし1月になって交渉記録らしい資料を公表。麻生財務相は交渉記録ではないと苦しい弁明をしている)と国会答弁を続けた佐川宣寿国税庁長官だろう。後ろめたいのか、佐川氏は就任後一度も記者会見を開かず、自宅にも戻っていないという。税金を徴収する役所のトップとして彼は何を思いながら、確定申告の季節を送っているのだろうか。  

 東西冷戦時代、西ドイツの指導者として手腕を発揮し、哲人政治家ともいわれたヘルムート・シュミット元首相(2015年11月に死去)はかつて「ドイツの政治が常に必要としているのはモラルと思想です。政治とは、道徳的な目標を少しずつ実現していくための努力だと思っています」と語った。日本の政治家、官僚たちにとって、これは耳が痛い言葉ではないか。