小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1631春を告げるフキノトウ 心弾む萌黄色

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 近所に小さな森がある。その森に最近フキノトウ(蕗の薹)が大きくなっているのが、散歩コースの遊歩道からも見える。そこまで行くにはかなり斜面を下る必要があってかなり危険なため、誰も取りに行かない。そして、日に日に薹が立ち一面が白くなっていく。春の到来だ。

「われわれの食卓にいかにも春らしい香気を添えるものなら、蕗の薹にまさるものはない。(中略)春待つ心にしもとおる香り。それは不粋なローマ人が回春のために用いたという処女の生き血の風呂よりも、われわれには効き目のある回春の秘香かも知れない」。

 文芸評論家、杉本秀太郎の「蕗の薹」に寄せる言葉(講談社学術文庫『花ごよみ』から)である。杉本が言うように、フキノトウはそんな香気があり、さらに食べるとほんのりとした苦味がある。この苦味を受け付けないという人がいれば、その逆にこれがたまらないという人もいる。その意味では好き嫌いが激しい植物といえる。  

 ちなみにフキノトウはフキのつぼみのことで、フキノトウが大きくなったものは「フキの姑」と呼ぶという。杉本は「嫁に小言ばかり多い姑は、にがみが強すぎて野暮な蕗の薹である」と記している。世の中には苦味の強いものを好む人もいるだろうし、核家族化で嫁と姑の関係もかなり変化しているから、この言葉は死語に近いのかもしれない。  

 歳時記には「枯れ色の野の中にぽつりとこの萌黄色(もえぎいろ)の花芽を見つけると、春の訪れを感じて心がはずむ」(角川俳句歳時記)とあり、明治の俳人、西島麦南の「雪国の春こそきつれ蕗の薹」という句のように、雪国でもフキノトウは春の到来を告げる歓迎すべき植物なのだ。  

 山形の豪雪地帯に住む友人から2月中旬に届いたメールには「こちらは今まで経験したことのないような大雪が続いています。なんと、一時的に4mを超えました。超圧巻の見上げるような雪景色です。なぜ、こんな素晴らしい所を先祖は終の棲家にしたのでしょう。先週に一時的な雨が降りまして大分沈みましたが、今でもまだ3mぐらいはあります」と書いてあった。このメールから2週間余。友人の家周辺は、まだ深い雪に覆われているのだろうか。  

 柳田國男は『雪国の春』の中で、東北地方の春について「例えば奥羽の處々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、風は軟らかく水の流れは音高く、家にはぢっとして居られぬような日が少し續くと、ありとあらゆる庭の木が一齊に花を開き、其花盛りが一どきに押し寄せてくる」と書いている。それは北海道も同様で、この表現のような「一時に押し寄せてきた春」を私も何回か経験した。今冬、東北、北海道、日本海側はひときわ雪が多かった。それだけに山形の友人をはじめとして人々の爛漫の春を待つ思いは、例年になく強いのではないか。

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 写真 1、近所の森のフキノトウ2、満開近いミモザの花