小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1627 銀メダリストの光と影 2人の名選手を思う

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 第23回平昌冬季五輪で、これを書いている16日午前現在、日本選手はこれまで金メダルは獲得していない。しかし銀4、銅3という活躍を見せている。スキー複合ノーマルヒル渡部暁斗スノーボード男子ハーフパイプ平野歩夢は2大会連続して銀メダルを獲得した、女子スケート1500メートルの高木美帆と1000メートルの小平奈緒の2人も銀メダルだった。この4人の銀メダルに対し称賛の声と、金を逃した惜しむ声が半ばした。銀メダリストは光と影を併せ持つ存在のようだ。  

 夏、冬の大会を通じて歴史に残る日本人銀メダリストは、第9回アムステルダム夏季大会(1928年)女子陸上800メートルの人見絹枝と第21回バンクーバー冬季大会(2010年)の女子フィギュアの浅田真央の2人といっていい。陸上競技の万能選手だった人見はこの大会で女子の個人種目すべて(100m、800m、円盤投走高跳)にエントリーし、8月2日のメートルでドイツ選手に次いで2位になった。  

 陸上競技で女子選手の参加が許されたのはこの大会が初めてだった。しかし、この競技は出場した9選手中6人がゴールした後倒れたと報道されたことから、女子には過酷だとして再開されるのは32年後のローマ大会(1960年)からである。人見はアムステルダム大会から3年後の1931年8月2日、肺炎のため24歳という若さでこの世を去った。8月2日は奇しくも3年前、800メートルで銀メダルを獲得した日だった。  

 人見は五輪後も多忙な競技生活を送り、毎日新聞記者としての仕事もあり、強靭なはずの肉体が病魔に蝕まれたのだという。チェコの首都プラハ郊外の墓地には、人見の記念碑がある。1930年にプラハで開催された第3回万国女子オリンピックに参加して人気を集めた。だが、この街で風邪をひいて体調を崩し、これが翌年亡くなる要因になったといい、記念碑はそれを悼んだものだという。  

 浅田については、バンクーバーと続く第22回ソチ大会(2014年)を記憶している人は少なくないはずだ。バンクーバーでは女子では難しいといわれたトリプルアクセルを成功させながら、宿命のライバル韓国のキム・ヨナに惜敗し、銀メダルをもらっても悔しい表情を隠さなかった。ソチ大会ではショートで失敗し16位となった。しかしフリーではトリプルアクセルを成功させるなど、美しい演技を見せ6位に入賞、メダリスト以上の話題を集めたことは記憶に新しい。  

 浅田は2017年4月に引退した。五輪は銀だったが、このほかの世界レベルの大会(世界選手権、グランプリファイナル)ではキム・ヨナ以上の活躍をしており、記録とともに記憶に残る選手だったといえる。このブログでも浅田のことを数多く扱っている。浅田は人見とともに、歴史に残る名選手だった。4人の銀メダリストの今後は分からない。しかし、この4人もまた、歴史に残る名選手であることに違いない。

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