小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1589 韋駄天の輝きを 厚い壁を破った桐生

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桐生祥秀(21)が100メートルで10秒の壁を破った」というニュースを見て、韋駄天という神の存在を思い出した人もいるだろう。韋駄天は、もともと古代ヒンドゥー教の神だったが、仏教に入り、仏法の守護神になったといわれる。  

 古代インド神話の捷疾鬼(夜鬼)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、足の速い人、あるいは速く走ることを「韋駄天」、「韋駄天走り」と表現する。昨9日、陸上競技の男子100メートルで、日本選手として初めて桐生が10秒の壁を破り、9秒98の記録を作った。桐生の顔を見ていて既視感を覚えた。誰だろうと思った。そうだ、京都宇治の萬福寺の韋駄天ではないか。  

 あらためて、手元にある「週刊 日本の名寺をゆく 仏教新発見 30」(朝日新聞出版)を開いた。萬福寺(文華殿)には、中国人仏師、范道生(はんどうせい)作の韋駄天立像(1662年)がある。(もう1つ、天王殿に1704年ごろの作とみられるものがある)甲冑をつけ、胸の前で合掌し、腕の上で法剣を横たえている。近年、修復されたことにより全身が輝いている。100メートルを走り切った後の、桐生の表情はこの韋駄天を思わせ、しかも体から一種の輝きが出ていた。  

 日本にはかつて世界の強豪と競い、韋駄天走りをした陸上選手がいた。暁の超特急といわれた、吉岡隆徳である。吉岡は天才的スタートダッシュを生かして、第10回ロサンゼルス五輪(1932年)では6位に入賞し、昭和10年(1935年)には当時の世界タイ記録10秒3を記録した名ランナーだった。  

 この競技で人類が初めて10秒の壁を破ったのは、1968年(昭和48)のことだから49年前になる。アメリカの大学生選手ジム・ハインズが9秒9(手動計時)を記録したのである。ハインズはこの年開かれたメキシコ五輪でも9秒95の世界記録を樹立し、この記録は15年間破られることはなかった。

 桐生はハインズの記録から半世紀近い歳月を経て、大記録をつくったことになる。桐生は3年後の東京五輪で吉岡以来の100メートル入賞を目指すという。その夢がかなうことを韋駄天に祈ることにしよう。