小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

950 五輪代表になる厳しさ 参加することに意義があるのか

 ロンドン五輪代表を決める水泳の全日本選手権が開かれている。スポーツジムで20年近くのんびりとマイペースで泳いでいる私から見ると、別の世界の人間が水をかき分けている。それにしても、五輪は狭き門だと思う。

  優勝しても、標準記録を突破しなければ日本代表としてロンドンには行けない。標準記録を上回っても2位以上に入らなければ、代表にはなれない。標準記録を上回り、優勝するか2位にならないと栄光の舞台は踏めないのだ。厳しいと思うし、当然だとも思う。

  最近、タレントの猫ひろしカンボジアの国籍を取り、マラソン代表になった。涙をのんだ競泳選手たちの姿を見ていて、複雑な気持ちになった。

  猫の行為に賛否両論があるという。彼がカンボジア代表になったというニュースの際、2人の元マラソン選手の反応がそれを示していた。瀬古俊彦さんは、猫の姿勢を評価し、有森裕子さんは「カンボジアには懸命に頑張っている選手がいたのに」と、割り込んだ形の猫が代表に決まったことに、涙を流した。

  作家の曽野綾子さんも、国籍を変えてまでロンドンにこだわった猫を批判し、国籍を変えた以上、今後はカンボジア人として生きるべきだと新聞に書いた。

  猫のマラソンでの記録は、日本の女子の記録よりも劣っている。五輪は「速く、遠くに」という目標があるが、速くにはほど遠い。それでも代表に選ばれたのは、記録は悪くとも、五輪は出場することに意義があるという理由で、レベルの低い国でも参加が認められるからだ。

  カンボジアのマラソンはそんなレベルなのだが、猫はそこを見透かして、国籍を取り、別府大分毎日マラソンで2時間30分26秒とカンボジア人の選手よりもいい記録を出した。もちろん、標準記録(Aが2時間15分00秒、Bが2時間18分00秒)には及びもつかない記録だが、カンボジア陸連はこの記録を見て、猫をマラソンの代表に決めたのだ。

 「オリンピックは勝つことではなく、参加することにこそ意義がある」という言葉がある。

  近代五輪を提唱したフランスのクーベルタン男爵の言葉として伝わったが、米国選手向けに教会の大主教が贈った言葉だそうだ。商業主義に汚染された感の深いオリンピックを見ていると、競技弱小国からの参加は意義があると思う。それでも猫のような存在には、心から声援を送ることはできない。