大相撲初場所で大関稀勢の里が初優勝(14勝1敗)し、横綱昇進が決定的になった。優勝インタビューで稀勢の里は「自分の相撲を信じて、一生懸命どんどん稽古して、また強くなって皆さんにいい姿を見せられるように頑張りたいです」と語った。これまで以上に強くなりたいという言葉やよしである。
稀勢の里は愚直、不器用な力持ちというイメージがある。それは江戸時代の雷電爲右エ門という大力士を彷彿させる。雷電の強さは古今無双といわれる。すさまじいけいこを重ね、全力で相手に立ち向かい、力でねじ伏せ、突き飛ばし、投げ倒し、土俵にたたきつける。容赦をしない取り口だった。圧倒的強さだったにもかかわらず横綱にはならず、大関のままで引退した。その真相は分からないが、雷電も不器用な力持ちだったという。
一方、稀勢の里と同じ茨城県出身の名横綱に第19代横綱常陸山がいる。常陸山は横綱時代の1907年8月、弟子3人とともに米国を訪問、セオドア・ルーズベルト大統領(第26代)と会見、ホワイトハウスで横綱の土俵入りを披露した。この後翌年3月まで米国各地で大相撲の普及活動を続けたという。当時は年2場所時代(1月と5月場所)で、当然1月場所は全休となったが、国際性豊かな力士だったといえる。相撲では相手に攻めさせてから組み止めて倒す「横綱相撲」の型をつくった大力士であり、圧倒的に強い横綱だったといわれる。
雷電、常陸山に共通するのは、弟子に激しい稽古を強いたことである。常陸山は青竹のステッキを持って稽古を見守り、稽古を怠った力士は地位に関係なく横綱でもステッキで殴った。その一方で懸命に稽古に励む弟子や急成長をした弟子には賞金を与えて励ましたという。一方の雷電の厳しさを伝えるものとして飯嶋和一は「雷電本紀」( 河出書房新社)の中で一つのエピソードを書いている。飢饉に襲われた浅間の麓の村を少年の弟子一人とともに訪れた雷電は、弟子とのぶつかり稽古を生きる希望を失った村人に見せる。
雷電はぶつかってくる弟子を容赦なくたたきつぶし、何度も何度も向かってくる弟子に対しものすごい形相で立ちはだかる。意識がもうろうとするなかで必死にぶつかる弟子を村人は懸命に応援を始める。その声が聞こえたかのように、少年弟子はついに雷電を土俵から押し出す。翌日、雷電の耳に鬨の声が聞こえる。村の人たちは弓や竹やり、鎌、鍬を手にうさぎ、鹿、猪など山の動物たちを追いかける。
雷電と弟子の激しいぶつかり稽古から生きる希望を見いだし、狩りを始めたのだ。 稀勢の里の先輩横綱には、37回優勝というとてつもない大記録を達成した白鵬がいる。稀勢の里が白鵬の記録に追いつくのは無理なことは言うまでもない。
だが、人々の記憶に残る名横綱になるのは可能である。その魅力を稀勢の里という力士は持っているように思えるのだ。それを支えるのは、強くなるための稽古であることは言うまでもない。