小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1500 年輪を刻んで 懐かしく、心温まる人たちとともに

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 日本各地には、「巨樹」と呼ばれる大木がかなり存在する。福島県いわき市の国宝・白水阿弥陀堂の境内にも、イチョウの大木があった。いわき市の天然記念物に指定され、樹高29メートル、幹回り5・9メートルで、推定樹齢は不明だという(いわき市HPより)。巨樹の本に紹介されている代表的巨樹とは比較にならないが、なかなか風格があって見ていて飽きない。

 2015年5月に亡くなった詩人の長田弘さんは「大きな木にひとが惹きつけられるのは、大きな木はひとの心のなかに、きづかぬうちに、その木と共に在るという確かな思いを育てるためだろう」(晶文社『人生の特別な一瞬』の「欅の木」より)と書いている。阿弥陀堂イチョウの大木を見上げながら、私もそんな思いに浸った。

 ナチスを憎んだドイツの作家で詩人のヘルマン・ヘッセにも木に関するこんな言葉がある。「一本の木」という表現だが、私はやはり大きな木を想像する。

「私たちが悲しみ、もう生きるに耐えられないとき、一本の木は私たちにこう言うかもしれない。落ち着きなさい!落ち着きなさい!私を見てごらん!生きることは容易ではないとか、生きることは難しくないとか、それは子どもの考えだ。おまえの中の神に語らせなさい。そうすればそんな考えは沈黙する。おまえが不安になるのは、おまえの行く道が母や故郷からおまえを連れ去ると思うからだ。しかし一歩一歩が、一日一日がおまえを新たに母の方へと導いている。故郷はそこや、あそこにあるものではない。故郷はおまえの心の中にある。ほかにどこにもない」(草思社『庭仕事の愉しみ』「木」より)

 木には年輪がある。年輪は比ゆ的に人間の成長にも使われるが、この1週間はこの言葉を思い浮かべる日々だった。いわきへは幼なじみとの旅であり、年輪を重ねた友人たちとの気兼ねがない時間を送った。

 帰ったあと、40年来付き合いがある元同業・他社の人たちと一夕を共にした。集まった6人それぞれの顔に40年の年輪が刻まれている。だが、会話が弾むのは昔と変わらない。

《子曰く、学びて時(つね)に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。朋 遠方自(よ)り来たる有り。亦楽しからずや。人知しらずして慍(いか)らず、亦君子ならずや。》 (老先生は、晩年に心境をこう表わされた。〔たとい不遇なときであっても〕学ぶことを続け、〔いつでもそれが活用できるように〕常に復習する。そのようにして自分の身についているのは、なんと愉快ではないか。突然、友人が遠い遠いところから〔私を忘れないで〕訪ねてきてくれる。懐かしくて心が温かくなるではないか。世間に私の能力を見る目がないとしても、耐えて怒らない。それが教養人というものだ、と。)(加地伸行全訳注『論語講談社)学術文庫 ・「学而 第一より)  

 加地の訳注は分かりやすい。「友人が遥か遠くから私を忘れないで訪ねてきてくれる。懐かしくて心が温かくなるではないか」は、年輪を刻んだ友人たちと再会した私の心境でもある。

 ※このブログは、今回で1500回となりました。スタートは2006年の9月でした。あと2か月で10年になりますから、1年平均で150本を超える雑文をアップしたことになります。

 ブログの説明にある通り、自然を友にした散歩の途中、現代世相について考えたことを自由気ままにつづってきました。方向性はもちろんありません。これからもマイペースで書き続けたいと思っております。引き続きよろしくお願いします。遊歩

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