小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1810 心に残る木 9月、涼風を待ちながら

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 知人の古屋裕子さんが日本気象協会のホームページ「tenki.jp」で、季節にまつわるコラムを担当している。直近は「さあ9月、『秋』への予感を感じるために!」と題し、「木」に関する話題を取り上げている。(「誰でも持っている心に残る木」「大木はやすらぎと信仰の場所」「木は生活に欠かすことのできない潤い」)分かりやすい言葉で書かれた古屋さんの珠玉のコラムを読みながら、私の心に残る木を考えた。  

 かつて私の生家の庭に、一本の古木があった。樹齢数百年の五葉松である。これが私の場合の「心に残る木」だ。この木については以前のブログで書いているが、改めて触れてみる。  

 樹高12、3メートルくらい、品があり、わが家の庭ではいちばん目立つ木だった。長い年月の風雪に耐え抜いた幹には、大きな空洞ができていた。ある年から、その穴にフクロウが住みついた。卵を産み、ヒナがそこからふ化した。ある日、私と兄は五葉松にはしごをかけ、フクロウがどこかに飛んで行っていないことを見越し(フクロウは夜行性といわれるが、昼に活動することもあるそうだ)、交互にはしごに乗ってフクロウの穴に手を突っ込んだ。中には卵が3、4個あり、私たちはその卵を取ってご飯にかけて食べてしまった。2人とも小学生でわんぱく盛りのころのことである。その後、フクロウがいつまでこの松に卵を産んだかは覚えていない。何年かが過ぎ、大きな台風でこの五葉松は根元から横倒しになった。  

 植木屋さんに頼んで、倒れた松は元に戻し、傷ついた幹と枝には保護用のわらが巻かれた。その結果、新しい葉が出て数年は持ちこたえた。だが、それは最後の輝きだった。寿命が尽きたのだろう。次第に松は元気を失い枯れてしまった。この松を愛し明治、大正、昭和という激動の時代を見届けた祖母は、松が枯れるのに歩調を合わせたように88年の生涯を終えた。私は記者人生をスタートしたばかりのころだ。愛する息子(私の父)を戦争で失い、嘆きの日々を送った祖母を救ったのは凛々しくそびえる五葉松だった。幼い私は、毎日のように松を見上げる祖母の後ろ姿をはっきりと記憶している。祖母は五葉松と心の対話を続け、慰められていたのかもしれない。

「一本の頑丈な木ほど神聖で、模範的なものはない。一本の木が鋸で切り倒され、その痛々しい傷を太陽にさらすとき、その墓標である切り株の明るい色の円盤にその木のすべての歴史を読みとることができる。その年輪と癒着した傷痕に、すべての闘争、すべての苦難、すべての病歴、すべての幸福と繁栄が忠実に書き込まれている。酷寒の年、豊潤な年、克服された腐蝕、耐え抜いた嵐などが。そして農家の少年ならだれでも、最も堅く、気品のある木が最も緻密な年輪をもつことを、高い山のたえまない危険の中でこそ、この上なく丈夫で、強く、模範的な幹が育つことを知っている」(ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』草思社、「木」より)

「人それぞれの履歴書があるように、木にもそれがある。木はめいめい、そのからだにしるして、履歴をみせている。年齢はいくつか。順調に、うれいなく今日まできたのか。それとも苦労をしのいできたのか。幸福なら、幸福であり得たわけがある筈だし、苦労があったのなら、何歳のとき、何度の、どんな種類の障害に遭ったのか、そういうことはみな木自身のからだに書かれているし、また、その木の周辺の事物が裏書きをしている――と同行の森林の人は教えてくれた」(幸田文『木』新潮社、「ひのき」より)    

 私の生家の五葉松は、ヘッセと幸田さんが書くように、喜びと悲しみの履歴を抱えながら、静かに枯れたのだった。生家を離れて半世紀以上が過ぎた今、私の心に残る木は、自宅の庭の前に広がる遊歩道を埋め尽くすけやき並木である。大木に成長したけやきは、酷暑の夏には緑陰樹となり、秋には美しく色づきながら、通学の子どもたち、会社へと急ぐ大人たち、散歩やジョギングを楽しむ人たちだけでなく、さまざまな事情で遊歩道を歩き、あるいは自転車に乗る人々を見守っているのである。  

古屋さんのコラム↓  

さあ9月、「秋」への予感を感じるために!  

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