小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1457 「或る晴れた日に」「でもぼくらは永久にもどれない」

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 何気なく本棚から『立原道造詩集』(ハルキ文庫)を取り出し、パラパラと頁をめくっていると、「或る晴れた日に」という詩があった。外は雨がぱらついている。寒い冬に逆戻りしたような天気だ。

 きょうは3月11日。5年前の大災害を思い出しながら、詩を読んだ。

 悲哀のなかに 私は たたずんで ながめてゐる いくつもの風景が しずかに みずからをほろぼすのを すべてを蔽う大きな陽ざしのなかに 私は黒い旗のやうに 過ぎて去る 古いおもひに ふるへながら 光や 風や 水たちが 陽気にきらめきさわぐのを とほく ながめてゐる……別れに先立って 私は すでに孤独だ―私の上に はるかに青い空があり 雲がながれる しかし おそらく すべての生は死だ 眼のまへに 声もない この風景 そして 悲哀が ときどき大きくなり 嗄(しはが)れた鳥の声に つきあたる

 肺結核を発病した立原道造は、1939年3月29日、24歳8カ月でこの世を去った。発病後の1938年、勤務先の設計事務所を休職し、東北、関西、九州を旅行している。東北の旅は軽井沢から山形へと向かい、歌人斉藤茂吉が生まれた上山に入り、仙台、石巻を経由して盛岡まで足を延ばしている。

 若い詩人の目に東北の風景はどのように見えたのだろう。前掲の詩もこの年に書かれている。死の影におびえる青年の心理を反映しているような詩だ。 道造の詩は、大災害で運命が大きく変わってしまった被災者の心情と重ね合わせることができるようだ。新聞によれば大震災の避難者はいまなお17万人余に達している。中でも原発事故の福島の人たちが避難生活にピリオドを打つ日は分からない。

《ぼくは家に置いてきたんです。ぼくのハムスターを閉じ込めてきた。白いの。2日分のエサを置いてやった。でもぼくらは永久にもどれない。》

 これはチェルノブイリ原発事故をテーマにした聞き書きチェルノブイリの祈り』(スベトラーナ・アレクシエービッチ著)の「子どもたちの合唱」の項で紹介されている一人の子どもの声だ。「でもぼくらは永久にもどれない」という言葉が悲しい。だが、この言葉はいまも日本のどこかで使われているはずである。

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