小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

1916 別れの辛さと哀しみ 遠い空へと旅立った友人たちへ

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 私らは別れるであらう 知ることもなしに   
 知られることもなく あの出会つた   
 雲のやうに 私らは忘れるであらう   
 水脈のやうに         
(立原道造詩集「またある夜に」より・ハルキ文庫)  

 梅雨が明けたら、猛烈な暑さが続いている。そんな日々、友人、知人の訃報が相次いで届いた。人生は出会いと別れの繰り返しだ。そんなことは百も承知だとしても、懐かしい人たちとの別れは辛くて、悲しい。彼らは遠い空へと旅立った。

……………………………………

 Aさんは、環境問題を専門に取材した。たばこの煙がもうもうする中で、彼よりも若い記者と2人で嫌煙権を主張した。当時の100人近い記者集団の中では異質だったが、Aさんの行動は正しかった。年末になると、宮崎の知り合いから車海老を取り寄せる注文を取った。多くの部員がそれを楽しみにしたことを忘れない。記者をやめた後、故郷の北海道に帰り、そばを作り、琉球空手を教えた。ひげを伸ばした姿を見ると、私はアイヌの人々を連想した。物静かな先輩だった。  

 Bさんは、防衛問題の専門記者だった。心優しく、悪を憎んだ。粘着質という言葉は彼のためにあると、私は思ったことがある。現在、もしこんな気骨がある人が記者活動をしていたら、現政権に激しく立ち向かったと想像する。足で稼ぎ、きちんとした論理を構成した質問に、官房長官もたじたじしたに違いない。晩年、病魔との闘いの連続だった。神が存在するなら、なぜ彼にこのような試練を与えたのか、答えを聞いてみたい。  

 Cさんは、ある政治家の孫だった。日本で記者活動をした後、家庭の事情で日本の報道機関をやめた。しかし、ジャーナリズムへの思いを断つことができず、フィリピンに渡り現地の日本人向けの新聞を創刊した。新聞社経営は苦労の連続だっただろう。だが、若くして記者活動=足で稼ぐ=の醍醐味を知った彼は、そうした苦難をものともせずに踏ん張った。事件取材が大好きで包容力のある、大人だった。  

 3人はそれぞれの取材分野で一家言を持ち、個性的でありながら記者として、人間として魅力があった。私は酒を飲みながら、愛すべき3人と仕事をした時代を思い出している。

 立原道造詩集「またある夜に」を読み返す。最後の段落が心に沁みた。   

 私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ   
 月のかがみはあのよるを映してゐると   
 私らはただそれをくりかへすであらう  

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