小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1381 美を考える ニュースに登場する醜悪な人たち

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 最近、美について考えることが多い。美という概念からは芸術、哲学から自然界まで幅広いものを感じとることができる。関心事の一つである仏像を見ても、その気品ある姿は美そのものである。私の家の墓地がある寺には薬師如来像がある。顔の表情はとても柔らかで、穏やかだ。

 こうした美とは対極にあるのが「醜悪」だ。それが新聞、テレビに度々登場する人たちから感じるのはどうしたことか。 具体的にはどのような人たちか。政界、経済界、そのほか話題の新国立競技場をめぐるニュースに登場する人たちである。権力欲むき出しの人、その取り巻き、さらに老醜を感じる人、責任逃れに必死の人もいる。まさに、薬師如来とは縁のない顔ぶれがこのところ毎日ニュースとして私の目に触れる。

 夭折した詩人の立原道造はこんな詩を書いている。

「美しいものになら ほほゑむがよい 涙よ いつまでも かわかずにあれ 陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき あのものがなしい 月が燃え立つた」(詩集『暁と夕の詩』「Ⅶ溢れひたす闇に」より)

 そう思う。美しいものにならだれでも微笑む。そして涙を流してもいい。その涙を阻むのは、醜悪な人たちが跋扈する姿なのである。 後半生、執筆の時間以外は庭で過ごしたというヘルマン・ヘッセは、庭仕事の中で楽しみ、美を観察、発見した。

「その甘い魅力できみをとらえ あふれるばかりの美を 予感させる歌のメロディーのように そっと愛撫しながらきみを感動させ 比類なく清らかで繊細だ きみはそれを判断することはできず 感じるのはただ 甘い忘却と甘い現実のみだ。」(『花の香り』の「バラの香りは」より・岡田朝雄訳)

 東京電力福島第一原発事故によって閉鎖になった福島県双葉町の「双葉バラ園」をNHKのクローズアップ現代が取り上げた。個人運営では日本有数のバラ園の現況は悲惨であり、荒涼たる風景が映像に映し出されるのを見て、美しさとは対極にある政治家や経済人の醜悪な表情を思い浮かべてしまった。

 かつてこのバラ園はヘッセの詩のように「あふれるばかりの美」を誇っていた。しかし、人間が作り出した「第二の神罰」(イギリスの元首相、チャーチルの言葉。彼はアメリカの原爆開発の成功を知って、原子の火を人間が手に入れたことで、第2の神罰が下るかもしれないと文学的表現で警告した)によって、その誇るべき美は失われてしまった。

 美しい東北に住む知人からメールをもらった。その中に最近の日本社会の動き(安保法制の衆院での強行採決など)に絡み「私的に申し上げれば、読めば読むほど美しいとさえ感じる『憲法』を護っていく姿勢はとても重要なことだと思います。国際化時代の中で憲法に対する意識感覚が今後どのように変貌して行くのかが気になるところですが……」というくだりがあった。 憲法の表現を美ととらえた感性に脱帽し、この憲法の大切さを再認識した。

 写真 乾いた空気の中、近所の調整池は輝いて見えた。

 美しい言葉をつかまえたい 想像力を失うと・・・