小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1463 旅で感じるもの ミャンマーはアジアの楽園になれるのか

画像 放浪の旅に明け暮れた自由律の俳人種田山頭火は、「道は前にある、まっすぐに行かう(行こう)」が信念だった。そして、「句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない」(『山頭火句集』・ちくま文庫所蔵の随筆「道」より)と書いている。

 放浪の旅をしながらも、山頭火が人生の深淵を考え続けたことがうかがえる。旅というものはさまざまなことを考え、感じる機会でもあるのだ。 知人がミャンマーを旅した。竹山道雄の『ビルマの竪琴』で知られ、昨今の急速な経済開発は「アジア最後のフロンティア」ともいわれる。さらにアウン・サン・スーチーさんが率いる国民民主連盟(NLD)が総選挙に圧勝し、長く続いた軍事政権に代わってミャンマーのかじ取り役を担うことになり、国際的にも注目を集めている国だ。

 ミャンマーには、バガンという世界三大仏教遺跡の1つがある。他の2つはカンボジアアンコールワットインドネシア・ボロブドゥールで、双方とも世界文化遺産に指定されている。大小3000前後の仏塔があり、規模的には2つの遺跡に勝るとも劣らないバガン遺跡は、世界遺産に登録されていない。世界遺産は人類にとってかけがいのないものだが、ISが一時占拠し、アサド政権が奪還したというシリアのパルミラ遺跡のように、思想的理由で破壊にさらされる遺跡もある。管理が行き届かず、危機遺産リストに入る遺跡も増えている。

 崩壊の危機にあったアンコールワットやボロブドゥール遺跡は、国際的協力で修理作業が進んだ。一方バガンは、軍事政権時代が長く続いたことや修理方法に問題があったことなどでまだ暫定リスト(遺産候補)段階だという。バガンなどミャンマーの主要観光地を巡った知人は、旅で見たこと、何を感じたことを記録として送って来てくれた。その最後には、アジアの楽園への期待をこめ、こう記されていた。

《ようやく実現の緒につく民主主義国家の構築であるので、「急がず・弛まず・諦めず」で進めていくことを期待する。そして何年か後に再び訪れたいと思っているので、その時この国がアジアの楽園へ向かって力強く確実に歩んでいる姿が見られることを願っている。》

 ところで、旅行記でよく知られているのは、明治時代に日本各地を旅したイギリス人イザベラ・バードの『日本紀行』(時岡敬子訳・講談社学術文庫)である。その最後にバードは『日本の現況』に触れ、以下のように書いている。

《日本の水平線にかかっている影のなかでもわたしの思索にとって最も暗い影は、日本が有史以来はじめて、キリスト教の果実をそれが育った木を移植することなしに確保しようとしていることから生じている。国民は不道徳に溺れ、スタートを切ったレースにおいてオリエンタルリズムという重荷が首にぶらさがり、その進歩は道徳的というより政治的、知識的である。

 言い換えれば、人の最も高尚な運命という点に関しては、現在のところ個々をとっても集団をとっても失敗である。日本にとっての大きな希望は、イエス・キリストが唇と命で説いた原始キリスト教の真理と純粋さを、わたしたちの芸術や科学をつかみとったときと同じように旺盛につかみうるということ、またキリスト教を受け入れれば、高潔さと国民の立派さという真の道義を備えた日本は、最も高尚な意味において、「日出ずる国」となり、東アジアの光明となりうるかもしれないということである。》

 私流の解釈―。「日本はキリスト教あるいはその精神を受け入れることなく、ヨーロッパ文明を取り入れようとしている。国民は不道徳だ。東洋的な精神が重荷となり、日本の現況は道徳的なものよりも政治的、知識的進歩であり、精神面の進歩という面では失敗をしている。日本はヨーロッパの芸術および科学を学んだのと同様に、キリスト教の真理や純粋さを受け入れることが可能であり、そうなれば高潔さと道義を備えた国として東アジアの中心となり得るだろう」

 知人のミャンマーに対する柔らかな視線と異なり、キリスト教優位の立場からのかなり厳しい目線である。だが、長い旅を続けた日本の発展を願う気持ちがにじみ出ていることも確かである。日本はバードが希望するキリスト教国家にはならなかったものの、20世紀には東アジアの中心的存在に発展した。ではミャンマーは今後アジアの楽園になれるのだろうか。

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