小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1176 受難の歴史を歩んだアユタヤ遺跡 タイへの旅(4)

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 ことしは海外の2つの世界(文化)遺産を見た。7月のカンボジアアンコールワットと11月のタイ・アユタヤである。アンコールワットは12世紀前半、アユタヤは14世紀から建設が進められた。日本では平安時代後期―鎌倉時代を経て室町時代初期に至るころだ。

 2つの遺跡は一時歴史の中に埋没し、後に発見されて世界遺産として世界中の人々に愛されている。 しかしその歴史は平たんなものではなかった。アユタヤには隣国ビルマ(現在のミャンマー)との争いの傷跡が無残な形で残っている。しかも、近年は大水被害のため、ピンチに陥った。アユタヤはこうした受難の歴史を歩んだ遺跡なのである。

 アユタヤで売られていた小冊子は、その歴史について概略次のように記している。

「プラ・ナーコン・スィー・アユタヤ県はタイ王国の1つの古都で、417年間続き、33人の王様が治めた。その時代、ビルマとの戦いで2回負け、一時的にビルマ支配下に置かれたことがある。1767年の戦いでアユタヤは大きな被害を受け、再び以前のような繁栄を取り戻すことはできなかった。都としてのクルン・スィー・アユタヤの時代は、政治、芸術、文化、経済などさまざまな面で繁栄した。しかし時が流れ、現在のクルン・スィー・アユタヤはビルマの侵攻により廃墟となった遺跡が、次代の人々がその歴史を学ぶために残されている」

 説明にあるように、アユタヤの遺跡の大半が破壊され、いま見ることができるのはほとんどが残骸だ。石像には首がない。

 ワット・マハタートという遺跡にはガジュマルの巨木の根の間に挟まれた仏頭があり、よく知られている。これもビルマ軍の仕業だったのだろうか。1767年の戦いから244年。2011年10月、アユタヤが大洪水に襲われたことは記憶に新しい。長く続いた大雨によりアユタヤを流れるチャオプラヤ川の水位が上昇し、遺跡群のあるアユタヤの街は洪水のため50センチ―2メートルまで浸水、水が引くまで1カ月も要した。

 住民らは川沿いに土嚢を積んだり、盛り土をしたりしたが、功を奏しなかったという。 ワット・プラ・マハータートの入り口のチケット売り場で買った絵葉書には、顔半分(鼻の真下)まで水に浸かっている根に挟まれた仏頭の写真があり、仏様がいまにも溺れそうな表情に見える。チケット売り場の小屋の柱の2メートル部分には線が引かれ、タイ語と日本語で「洪水のあと」と書かれていた。さらに、ワット・ローカヤースッター寺院の寝仏・寝釈迦像(涅槃仏・28メートル)も、全身の3分の2が水の中に入ってしまったという。

 アユタヤの洪水については日本の立命館大学チームが調査をし、その報告書が公表された。この報告で、調査チームは「いずれの場所でも不同沈下が生じ、ピサの斜塔のように遺跡が傾いている。建造されて何百年の月日が過ぎ、現在も沈下が生じている可能性があり、対策が必要。このまま放置されると、遺産自体の価値が下がる恐れがあり、今まで以上の洪水対策を講じるべきだ」(歴史都市防災論文集・2012・12)と、指摘をしている。 世界遺産は人類共有の貴重な価値を持ち、現代に生きる人々はそれを守り、後世に引き継ぐ責任があり、調査チームの提言を生かしてほしいと思う。

 アユタヤは、洪水被害から2年が過ぎて、観光客も戻りつつある。私もその一人であり、遺跡群を回りながら往時のアユタヤの繁栄ぶりを想像した。これらの遺跡に接して、私は「栄枯盛衰」(繁栄がいつまでも続くことはなく、いずれは衰えるという意味)という言葉を思い浮かべた。人類の歴史はそれを繰り返している。そのシンボルとして、アユタヤの廃墟ともいえる遺跡群がある。

 

 写真 1、ワット・ローカヤースッターの寝仏(足の上から4本目から下が水に沈んだ) 2、ワット・プラ・マハータートの仏頭 3、鼻の下まで水に浸った仏頭 4、ワット・マハタートのチケット売り場、柱に洪水のあとの文字 5、日本語で書かれた「洪水のあと」 6、アユタヤの象徴・ワットプラ・シー・サンペット

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5回目へ続く