湖をとりまく山の紅葉かな
俳人の正岡子規が日光を訪れたのは明治25年10月30日のことだ。前日、宇都宮に入った子規はこの日、日光に足を伸ばし、華厳の滝や中禅寺湖を見て、翌31日に東照宮に参拝している。子規はこの旅で『日光の紅葉』という俳句入りの短い随筆も書いている。冒頭の句はこの作品の中の一句である。
ことしの紅葉は例年より早いらしい。先日訪れた日光は、子規の句のような錦繍の季節を迎えていた。 このごろの日光は、土曜、日曜は車が渋滞し、いろは坂はのろのろ運転の状態が続くようだ。しかし、平日の早い時間の日光はさすがに車もそう多くはなく、いろは坂の渋滞もなかった。男体山など中禅寺湖をとりまく山々は赤や黄色の原色に覆われていた。
子規は随筆の中で「中禅寺湖に至れば錦繍の屏風の中に磨とぎ出だせる一面の鏡、竜田姫の化粧道具うつくし」という文章の後に、冒頭の句を書いた。竜田姫というのは、奈良・竜田神社別宮に祀られている日本の秋の神のことで、子規の知識の豊富さはさすがである。
子規はこの旅のあとの12月1日、大学(東京帝大)を中退して日本新聞社に入社するのだが、子規にとって、旅は自身の目を開かせる大きな力になったのだろう。
中禅寺湖は日光を開いた勝道上人(735~817)が782年に男体山に登った際に発見したとされる。現在は観光の湖として知られるが、ニジマスやヤマメなどの資源が地元に潤いをもたらした。
だが、2011年の東日本大震災で大きな影響を受ける。東京電力福島第一原発事故の放射性物質の拡散で湖が汚染され、ワカサギ以外の魚種の持ち帰りが禁止になるという痛手を蒙ったのだ。 子規の句のように秋の湖は美しい。だが、見た目と裏腹に湖は人間の手によって傷ついてしまった。後年、中禅寺湖がこのような災厄に見舞われることを子規は考えもしなかっただろう。
写真 1~5枚目までが日光の風景、6~8枚目は福島県の滝川渓谷の風景、9~10枚目は栃木県喜連川の朝の風景。
850 「苦労した写真の後でうなぎ食べ」 青年・子規の房総の旅