小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1511 雲流れゆく9月 やってくるへちま忌

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 朝も秋ゆうべも秋の暑さかな  「もう秋のはずなのに、朝も夕方も暑くてたまらない」という意味の句だ。8月が終わり、9月になったが、残暑は厳しい。だが、空を見上げると、秋の気配が伝わってくるように、薄い雲が流れている。間もなく子規のへちま忌(9月19日)がやってくる。

 冒頭の句は現代の俳句といってもおかしくはない。だが、作者は芭蕉よりも少し若いが、江戸時代中期の俳諧師上島鬼貫(1661―1738)の句である。詩人の大岡信は鬼貫(おにつら)について、口語体の俳句に関し一茶以前の先駆者だったと評価している。

 高浜虚子らが編集した『俳諧歳時記』(江戸時代の俳諧師の句を中心に選定)による主要な36俳人として芭蕉、蕪村、一茶、千代女らとともに名前が挙がっている。 鬼貫にはこの句も含め分かりやすい句が多い。

 にょっぽりと秋の空なる富士の山 

 富士を見ることなく死んだ親友に贈った、富士山の印象を詠んだ句。「にょっぽり」は俗語で「のっぽり高い」という意味だという。

「言葉の厚化粧をほどこすところ、凝ったところ、そういうとこらからスポンと脱落して脂っ気を落とし、そこから新しいものを生み出しているんですね」(『瑞穂の国うた』より)と大岡は言う。私はそんな句が好きだ。

 最近、画家・岡本太郎(1911-1996)の『美の世界旅行』(新潮文庫)を読んだ。インド、ユーラシア草原、スペイン、中南米、韓国を画家の目で見ながら旅した記録である。対象は美術と建築物が中心だが、面白いのは岡本太郎が、オーソドックスな世界の美術史の枠組みから外れたものに興味を持つことだ。そして、行く先々で街中に行き、人々と交流する。

 スペインでは、何と女子学生らのグループに交じってフラメンコまで踊ってしまう。 この本には、私が以前訪れた場所もいくつか登場する。そのうちペルーの世界遺産マチュピチュについて、岡本はこんな表現をしている。観察力の鋭さからみても、岡本がただ者でないことが分かる。作家、岡本かの子(母親)の血をひく太郎は文筆家としても知られている。

《「一段と高い孤峰のてっぺんに、灰白色に静まりかえってひろがる石積みの遺跡」 「真青にはりつめた青空。透明な陽光のもとに、この壮大な神殿都市の廃墟は見るものの心を無限の神秘に誘う」 「限りない夢を秘めて、マチュピチュの遺跡は静まっている。無言の石の連なり。無惨な明るさのなかにひろがる巨大な空間の感動」》

 鬼貫の句と岡本太郎の文章に接して感じるのは、表現の奥の深さである。

1403 きょうは子規のへちま忌 「言葉はこの世の屑」なのか

1216 南米の旅―ハチドリ紀行(5)天空の城を蝶が飛ぶ