小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1402 道義なき現代政治 安保法制に憲政の神様を思う

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 憲政の神様といわれた政治家がかつて存在した。尾崎行雄(咢堂)である。1912年(大正元)、犬養毅(1932年の5・15事件で暗殺)とともに第一次護憲運動を行い、組閣したばかりの長州閥桂太郎内閣を総辞職に追い込んだことで知られる硬骨漢である。

 尾崎は1939年(昭和14)、千葉県銚子市の旧伏見宮家別荘の瑞鶴荘を訪れた際に「朝またき 彼方の岸は アメリカと聞きて爪立つ おはしまのはし」という歌を詠んでいる。  

「まだ夜が明けきらない時間、対岸はアメリカだと聞いて、ベランダの手すりの端に爪先立って眺めている」という意味だ。 軍部の横暴を見聞きしていた尾崎は米国との戦争を予感していたのだろうか。だから、こんな歌を詠んだのかもしれない。尾崎がこの歌を詠んでから2年後、日本は米国を初めとする連合国と無謀な戦争を始めたことは言うまでもない。

 きょうの午後、参院の安全保障関連法案特別委員会の鴻池委員長に対する不信任案の賛否の討論、そのあとの強行採決(採決したのかどうか非常に疑わしい)といわれるだまし討ちのような動きをテレビで見ていた。野党議員が討論の演説をする後ろで自民党議員がこそこそやり、席を立ったりする姿が映し出されていた。みんな目つきが悪い。そして、いきなり採決とされる騒ぎが起きた。

 委員長を囲んだのは、特別委員会の委員ではない自民党議員だったという。これが良識の府の議員の姿だった。 この法案は誰が見ても米国に追随するもので、憲法学者最高裁判所判事経験者、元法制局長官が口をそろえて憲法違反と指摘した。それでも安倍政権は聞く耳を持たなかった。

 尾崎が桂内閣を倒して103年以上が経ている。この1世紀、日本の政治は何をやっていたのだろう。きょうの国会は日本の政治が全く進歩していないことを示した。あの映像が全世界に流れるのである。

 まともな大人なら、あの騒ぎを子どもたちに説明はできない。 手許にある『論語』(加地伸行訳注、講談社学術文庫)にこんなことが書いてある。

「憲問 第14」 1、憲恥を問う。子曰く、邦に道有れば、穀す。邦に道無くして穀するは、恥じなり。克・伐・怨・欲・行なわざる、以て仁と為す可きか、と。子曰く、以て難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなり、と。 〈現代語訳〉 (弟子の)原憲が恥とは何でしょうかと質問した。老先生は、こう、答えられた。

「邦に道義に基づいた政治が行われているときは、出仕(公の勤めを)するがいい。しかし、道義なき政治で乱れているのに仕えているのが、恥である」と。(原憲が続いてたずねた)「勝ちたがり、自慢する、恨む、欲深、こういうことをしなければ、人の道を踏んだことになりましょうか」。老先生「その四者を実行するのは難しい」(仮にできたとしても)それで人の道を踏んだことになるのかなあ」。

 安保法制議案の国会の動きを見ていて論語「憲問第14」にある「道義なき政治」を痛感するのである。国会の周辺では雨の中、おびただしい人たちがデモを続けている。

 写真は尾崎咢堂歌碑