小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1713 寛容よりも道義 異論のススメへの異論

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 朝日新聞佐伯啓思という京大名誉教授が「異論のススメ」という評論を載せている。2017年11月、朝日の当時の木村伊量社長が東電福島第一原発事故をめぐる「吉田調書」の記事や慰安婦報道の取り消しなど、一連の事態の責任を取って辞任した後に「あの朝日が」と思うほど、突然起用された保守派の論客である。10月5日付朝刊に載った佐伯氏の評論を読んで、かつてシベリアに抑留されて亡くなった山本幡男さんの遺書を思い出した。佐伯評論の内容は、遺書とは対極にあると思った。  

 佐伯氏の今回の評論は「『新潮45』問題と休刊 せめて論議の場は寛容に」と題し、先日休刊(事実上の廃刊)になった月刊誌「新潮45」問題を論じている。同誌の常連筆者だった佐伯氏はこの数年、論壇が異常な状態になっていると思うと前置きし、左右の応酬、それも情緒的な攻撃にも似た状態にSNSが加わって世論に働きかける状態になっていと論壇の現状を分析する。休刊の発端になった自民党杉田水脈衆院議員のLGBT問題の原稿については「配慮に欠け、杉田擁護の論考の一部にも問題があったのは事実だ」と書いたうえで、「その後の雑誌に対するバッシングは異常で、杉田氏を擁護する者は差別主義者のように見なされるのは問題だ」としている。  

 この後、杉田議員の原稿は3つの重要な論点(①生産性について②結婚や家族とは何か③LGBTは個人の嗜好か社会的制度や価値の問題か)が含まれていたにも関わらず、賛否両論とも基本的問題に向き合うことなく差別か否かが独り歩きしたと論じている。さらに佐伯氏は「人間社会の深いところに『正義』という観念はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪する。それはたちまち不寛容になり、それでは議論も成り立たなくなる」と説く。佐伯氏は最後に「もともとリベラルも保守もその根底には寛容があったはず。せめて紙媒体の論議の場だけは寛容さを保つ矜持がなければ日本の知的文化は崩壊するだろう」と結んでいる。

「寛容」は確かにいい言葉である。だが、この言葉に正義も不正義も包含されてしまっているのではないだろうか。杉田原稿が批判を浴びた後に特集された10月号の内容を佐伯氏は読んだのだろうか。この号には寛容とは程遠い、罵詈雑言ともいえる内容の、日本文化のレベルの低さを象徴するような原稿が載っていたことに、私は読んでいて吐き気さえもよおしたことを覚えている。そうした不正義の原稿を含めて寛容をと訴える佐伯評論は、読んでいて違和感があった。異論と思えばいいのかもしれないが……。  

 前置きが長くなった。ここで島根県出身の山本幡男さんの遺書について書く。シベリアに抑留され、過酷な強制労働の末に収容所で病死した山本さんの遺書を抑留仲間たちが暗記し、あるいはひそかに隠して持ち帰り、遺族に届けた経緯は辺見じゅんの『収容所から来た遺書』(文春文庫)に詳しい。遺書は仲間向けの「本文」と「母親」「妻」「子どもたち」あての計4通だった。「やさしい、不運な、かわいそうなお母さん、さようなら」(母へ)「私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、実によき妻を持ったという喜びにあふれている。さようなら」(妻へ)、そして子どもたちあての遺書は以下(抜粋)である。  

 君たちはどんな辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでもまじめな、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んでくれ。最後に勝つのは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面においてもこの言葉を忘れてはならぬ。  

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。強い能力のある人間になれ。自分を鍛えて行け。精神も肉体も鍛えて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。4人の子どもたちよ、団結し、協力せよ。自分の才能に自惚れてはいけない。学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなければならぬ。立身出世など、どうでもよい。自分で自分を偉くすれば、君たちが博士や大臣を求めなくとも、博士や大臣の方が君らの方にやってくることは必定だ。要は自己完成!最後に勝つものは道義だぞ。  

 下線の文章は、佐伯氏のものとは相いれない。「最後に勝つものは道義」という言葉を、現代人の多くが失ってしまっているのかもしれない。そういえば、激しい反対運動を押し切り、日米安保条約(改定案)を強行採決後、退陣した岸内閣に代わって登場した池田内閣が掲げたのは怒りの矛を収めさせるかのような「寛容と忍耐」の政策だった。