小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1206 3・11、最前線の初動は インタビュー集「『命の道』を切り開く」

画像「降る雪が雨へと変わり、氷が解け出すころのこと。昔からこの季節は農耕の準備をはじめる目安」―きょう19日は24節気の「雨水」に当たる。立春が過ぎ、雨水、啓蟄を経て春分へと季節は向かっていく。

  2月も残り9日になったが、ことしは未曽有ともいえる大雪を記録した2月として歴史に記されることになるだろう。この大雪は各地に大きな被害をもたらし、現在も後遺症が続いている。この豪雪に対し、政府が「豪雪非常災害対策本部」を設置したのは18日のことだった。「初動対策が遅い」という新聞報道や野党の批判は的外れではない。

  大災害といえば、あの東日本大震災からあと20日で丸3年が経過する。しかし被災地の復興は程遠く、原発事故の福島の人たちの避難生活に終止符を打つ見通しは立たない。そんな時、友人が執筆した東日本大震災直後、被災地の土木関係者がどのようにして道路や港湾を復旧させたのかに焦点を絞った「『命の道』を切り開く 3・11最前線の初動 13人の証言」(発行・一般社団法人建設コンサルタンツ協会)という本が届いた。

  元共同通信記者で東京都市大学講師の角田光男さんが国土交通省東北地方整備局、ヘリコプターによるさまざまな航空事業をしている東邦航空、被災地にある土木建設会社、岩手県釜石市の防災担当者、釜石市の神社の宮司ら13人にインタビューし、大震災当時の状況や復旧への取り組みを再現したものだ。

 「啓開」という耳慣れない言葉がこの本で目に付いた。「けいかい」と読み、自衛隊や消防、警察の救援チームが被災地に入ることができるよう寸断された道路を復旧させるものだという。具体的には国交省出先機関である東北地方整備局が「くしの歯作戦」という名前で内陸部を南北に貫く東北自動車道と国道4号からくしの歯のように太平洋沿岸部に伸びる国道を復旧させる方針を立て、東北地方の土木建設関係者らの協力でその作業を進めた。その結果、次第に被災地の道路が開通し、救援関係者だけでなくボランティアたちも被災地に入り込んで支援活動をスタートさせたのは周知の通りである。

  この本は4章から成っている。

  第1章(司令塔からの声) くしの歯作戦の指揮に当たった東北整備局関係者の証言。

 第2章(防災ヘリ離陸、決断と実行) 地震直後に仙台空港から飛び立ち、震災の状況を撮影した東邦航空関係者と整備局防災担当者の証言。

 第3章(最前線の現場で) 実際に作戦の作業を担当した土木建設会社関係者の証言。

 第4章(釜石で起きていたこと) 釜石の奇跡として報道された「命の道」(鵜住居小学校、釜石東中学校の児童生徒と幼稚園児ら数百人が鵜住居トンネルを使って避難した)の役割や釜石の復興の実情、そして同地区の神社の被災と鳥居の再建の様子に関する釜石市防災担当者と宮司の証言。

  13人の立場はそれぞれ異なる。国交省の出先の局長をはじめとする役所関係者、民間の土木建設関係者、ヘリコプター会社、宮司などにインタビューした本を読むと、山のような瓦礫を重機で動かし、官民一体となって復旧作業を進めた当時の被災地の実情が浮かび上がってくる。

  インタビューに答える13人の言葉にはそれぞれ重みがあり、その道の「プロ」としての矜持が伝わってくる。

  一般の人が土木というときにイメージする現場だけでなく、大きなオペレーションと現場がかみ合って動いた。闇屋の親父といって、困ったことの助けになるなら違法なことでもやるぞというメッセージを出したいと思い詰めた。初動は30分で決めた。

  海の道を開くために全国から作業船団を集めるよう要請し、早く到着した船団から優先度の高い港に投入した。

  ラジオから津波情報が入ってくる中、(ヘリが飛び立つのは)時間との戦いだった。

  もし津波が来ても片方のエンジンさえあれば飛べると思った。

  国交省とは有事の際の災害協定を結んでいて、それを素早く実行に移すことができた。しかし、実際はみんな被災者で、家も流された社員もいるし、親族を亡くした社員も多い。私自身も宮古市役所の近くに住んでいた叔父と叔母を同時に亡くした。経営者として家を流され、二重ローンを抱える社員の生活再建をどうするのか、思いあぐねる日々が続いている。

  (多くの子どもが亡くなった)大川小学校の話は聞けば聞くほどつらい。小学校5年生の男の子と2年生の妹で校庭近くの裏山に登ったが、兄の方は上れたが、妹の方は引っ張っても上がれず、兄の手から離れて津波に持って行かれたそうだ。あの状況ではどの判断がよかったのか、だれが悪かったのかということはないと思う。

  震災の仕事もあと3年もしたらなくなるはず。そのときに社員たちが食べていくために、どう守っていくかを考えると頭が痛い。

  建設業は警察や自衛隊のような、確固とした身分がないが、同じような危険にさらされて、自分を投げ打ってやる。そういう環境で働いている人たちがいることを忘れないでほしい。

  鵜住居トンネルの工事はうちがやった。あとで、鵜住居小学校の命の道(このトンネルを使って避難した)の話を聞いて、道路人でよかったと思った。

  釜石は最盛時10万近くあった人口が、いまは3万8000人を切っている。将来のことを考えると眠れなくなる。10年後、20年後のことをもっと議論しないと。

  昔は国道沿いで車も多かったこの地区も、いまでは工事のダンプしか走っていないし、人もあまり歩いていない。津波が来た場所にもう一度家を建てるのは厳しい面もあるが、いつかはみんなが住めるような環境にしていきたい。

  筆者の角田さんは、共同通信記者時代、通算10年にわたって盛岡や仙台に勤務し、東北は「第2の故郷」という思いを抱いているという。「もう一度あの日の直後に時間を戻し、命を懸けて復旧に立ちあがった人たちの証言を読んでほしい」と話している。

 写真は共同通信時代の同僚だった堂健夫さんが担当した。

 写真1、インタビュー集の表紙

   2、3散歩コースの公園の樹木は先日の大雪でかなり倒れてしまった

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