小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1825 あの川もこの川も氾濫 想像力欠如の楽観主義

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 千曲川多摩川阿武隈川那珂川という著名な川から、耳慣れない川まで数えることができないほどの河川が氾濫した。台風19号による未曽有の大雨は関東甲信越、東北を中心に甚大な被害を及ぼした。被害の全容はまだ分からない。浸水被害を伝えるテレビの映像を見ながら、台風15号に続く自然の脅威に身をすくめる思いの時間を送っているのは私だけではないだろう。  

 台風をめぐっては、多くのニュースが流れている。浸水し孤立が続く地区もあり、停電、断水の地区も少なくない。ワールドカップラグビーに出場したカナダチームが、試合が中止になった岩手県釜石市で被災地区の泥のかき出しなどのボランティア活動をしたニュースがあった一方で、東京消防庁から出動したヘリが福島県いわき市で高齢の女性を救助作業中、安全金具を付け忘れ高さ40メートルから落下させてしまい、女性が亡くなる悲劇も伝えられた。  

 今朝(15日)の段階で死者は60人以上となり、行方不明者も数多い。堤防の決壊個所は37河川、52カ所に及んでいる。こうした被害の実情からしても「予測されていたことから比べると、(被害は)まずまずに収まったという感じ」「日本がひっくり返るような災害から比べれば」(13日の自民党緊急役員会で二階俊博幹事長)という発言は、想像力を欠いた妄言としか言いようがない。  

 嵐や地震の直後にはその被害の実情は分からない。だから、軽々な発言は控えるべきなのだ。千曲川の堤防決壊の映像を見ればこの後どうなるのかと想像はできるはずで、決して「まずまず収まったという感じ」という言葉は出ないだろう。今回の被害は、15号を含めて今年の十大ニュースの上位に入る深刻なニュースになるのは間違いない。

 数十年前の社会部の駆け出し記者時代、気象庁を担当したことがある。当時、気象庁の専門家から「日本の河川改修は進んでいるので、河川の氾濫による大きな水害は今後起きないでしょう」と説明されたことを覚えている。当時、今回のような1日か2日で1年の3、4割分の降雨があることは予測されていなかったから、不自然に聞こえなかったのだが、この予測は当たらなかった。その後、何度も集中豪雨によって各地で大きな被害を受けたことは改めて書くまでもない。

「ケ・セラ・セラ」(1957年のヒチコックの「知りすぎていた男」の主題歌で、なるようになるさの意味)や「明日は明日の風が吹く」「ナンクルナイサ」(沖縄の言葉でどうにかなる、何とかなる、という意味)は、絶望の中でも前を向く姿勢や楽観主義を表すものだ。しかし、国民の安全に責任を担う政治家(行政担当者も)がこうした楽観主義に陥ってはならない。

 2011年3月11日の東日本大震災の被災者の体験談が「防災タウンページ」というNTT作成の小冊子に載っている。それによると、「辛かったこと、大変だったこと」は1、水がない2、電気が使えない3、食料や水の調達――が上位を占めている。今回も各地で多くの人たちがこの3つに苦しんでいる。犠牲者を悼み、被災地の一日も早い復旧を願うばかりである。