小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1205 もう一人のレジェンド いまも現役・長野五輪のテストジャンパー

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ソチ五輪の男子ジャンプ、個人ラージヒルで41歳の葛西紀明選手が銀メダルに輝いた。この年齢でスキーの第一線を続け、しかも世界のトップの位置を占めているのは驚異としか言いようがない。だれが名付けたのかは知らないが「レジェンド=伝説」という言葉はよく似合うと思う。葛西選手の活躍をテレビで見ながら、一人のジャンパーのことが家族の間で話題になった。覚えている人はいま、どれほどいるだろう。生まれながら聴覚に障害を持った高橋竜二選手である。 ソチ五輪直前の大きな話題は、全聾の作曲家といわれた佐村河内守氏の曲は私がつくったと、新垣隆氏が名乗り出たことだった。しかも、それを告白した新垣氏は「佐村河内氏の耳は聞こえていたようだ」と語り、これまで佐村河内氏がレコード会社をはじめ、テレビや新聞、出版社、音楽ファンをだまし続けたことが明らかになった。 ソチ五輪に出場したフィギュアの高橋大輔選手はこの騒ぎのあと、ショートで佐村河内氏の曲(実は新垣氏の曲)を使い、動揺することなく見事な演技をしたことはご承知のとおりである。 佐村河内氏の問題は、聴覚障害者にとって迷惑なことだったと思う。聴覚障害がPRの手段に使われたからだ。「全聾でありながら、絶対音感を頼りに作曲をした」という佐村河内氏のPRはマスコミに乗り、現代のベートーベンともてはやされた。しかし、音楽評論家で指揮者の野口剛夫氏は、ヒットした交響曲1番「HIROSHIMA」について、「マーラーショスタコービチなどをほうふつとさせる部分が随所にあり、和洋折衷何でもござれの定食屋のようだった」「感じたのは4畳半の青年の苦悩。あくまで個人的感傷にとどまっており、スケール感が不足していた」(朝日新聞)と、厳しい評価を下している。 佐村河内氏に比べると、高橋竜二選手はそんなには知られていない。高橋選手は、ジャンプの団体(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦船木和喜)、個人の船木、女子フリースタイルスキー里谷多英、スピードスケート500メートルの清水宏保、スケートショートトラック西谷岳文と、5つの金メダルを獲得した1998年2月の長野冬季五輪に協力した一人である。 どんな協力か―。日本では札幌に次いで2回目の冬季五輪で、高橋選手はスキージャンプのテストジャンパーを務めたのである。五輪開催直前に札幌・大倉山であったSTVカップ国際ジャンプ・ラージヒルで高橋選手は五輪代表の岡部を破って優勝した。長野では団体戦の1回目(日本は4位)のあと天候が悪化、続行の可否判断はテストジャンプに委ねられた。25人のテストジャンパーの中で高橋選手は最長の131メートを記録、この結果、競技委員は競技続行を決めたのだ。激しい雪が舞う中で、4位から逆転し、金メダルに輝いた日本各選手の2本目の大ジャンプはいまも多くの人に記憶され、テレビでも繰り返し放映されている。 高橋選手は長野五輪後、メディアに取り上げられることが多くなるにつれて成績がダウン、2000年に第一線を引退したが、その後競技生活に復帰、現在も選手として大会に出場している。彼は1974年2月25日生まれだから、来週で満40歳になる。葛西選手のように世界的選手ではないが、彼もまたレジェンドの一人なのである。 写真 葛西選手も高橋選手も、冬はこのような雪の中で生活した。