小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1092 あれから2年の心模様 旅の空から

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 江戸時代の俳人松尾芭蕉は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」(奥の細道序文)という言葉を残した。「月日というものは永遠に旅を続ける旅人であり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように、旅人なのだ」という意味であり、「光陰矢のごとし」という言葉と共通している。

 ことしも3月11日が過ぎて行き、このところ洪水のように続いたメディアの東日本大震災報道も次第に少なくなって行くだろう。あれからもう2年が過ぎたのだ。 3・11の前、三重県地方を歩いた。桑名、松阪、津といずれもがかつての城下町だ。

 この県の県庁所在地である津に行くことは、記念碑的な意味があった。これで全国の都道県庁所在地に足跡を記したことになるからだ。朝、桑名の揖斐川沿いを歩くと、高い堤防が築かれ、その内側の芝生の広場ではシニアたちがグランドゴルフに興じていた。長閑な光景だ。

 だが、この地域を含む三重、愛知両県を中心に日本列島は1959年9月下旬、スーパー・タイフーンと呼ばれる激しい台風に襲われた。伊勢湾台風だ。そのため伊勢湾沿岸部で河川が氾濫、全国で153万人が被災するという当時として明治維新以後最大級の自然災害となり、死者・不明者5098人、負傷者3万8921人、家屋の全壊3万6135棟、流失4703棟、船舶被害1万3759隻を出している。

 それから52年後の東日本大震災はこの災害をはるかに上回る傷を与え、原発事故という厄介な負の遺産が福島の人々を苦しめている。 桑名、松阪、津に共通するのはかつての城下町という点だ。城跡や模擬隅櫓(津城)などがあるだけで、かつての面影はない。

 だが、桑名城跡には徳川の四天王と呼ばれた本多忠勝像が、津城跡には戦国から江戸時代の武将・藤堂高虎像があった。桑名は寛政の改革で歴史に名を残した白河藩主・松平定信が隠居後領知替えになった地区であり、長い時を経て、白河と桑名は大災害に見舞われた。

 穏やかな日和の三重を歩くと、東日本大震災は遠い地の出来事のように思えてしまう。だが、旅を終えて東京に戻ると、3・11の前日は、地上の土やほこりが空に舞いあがる煙霧という現象に見舞われ、空には薄黄色の砂が舞い視界が極端に悪くなった。この日は、かつての同僚の葬式があり、出棺を待つ間、空を見続けた。

 仕事が好きで、家に帰ることを忘れたような生活を続けた彼は、後輩たちにも慕われた。病と闘いながら大震災の被災者たちを思っていたに違いない。 3・11の朝、NHKテレビを見ていると、見た顔が映っている。被災地の石巻市で高齢者や病院に通う人たちを車で送迎している災害移動支援ボランティア「Rera」(アイヌ語で風という意味)の村島弘子さんだった。

 2011年4月からスタートしたReraに、村島さんは「押しかけ」で飛び込んだのだそうだ。札幌出身で、震災当時千葉市の農産会社の研究農場で勤務していたが、その仕事を辞めて札幌のNPOが始めたこの活動に参加した。いまも、需要は多いのだが、村島さんは運営資金が足りないと訴え、NHKは村島さんが東京の企業などに協力を呼び掛ける場面も流していた。

 大震災の被災者に対し一時は多くの企業が支援をしたが、現在、その熱は当初ほどではないという。円安が進み、社員・従業員のボーナスは満額回答という景気のいい話が新聞に載っているが、まるで別の国の話のようだ。

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 原発事故で避難したままの福島の人たちを思いながら、杜甫漢詩「春望」を心に浮かべた。

 国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙をそそぎ  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり 家書万金に抵(あた)る  白頭掻(か)けば更に短く 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

(都の長安は戦乱ですっかり破壊されたが、山や川は昔のままだ。城内にも春がやってきて草や木が深々と茂っている。そんなことを思うと花を見ても涙が落ちる。家族との別れを悲しんで鳥の声にも心が痛む。戦乱が長く続き家族の手紙は、万金にも値するほど貴重だ。不安で白髪を掻けば髪の毛はさらに短くなり、今では、かんざしも差せない)