小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

949 原爆投下とトルーマン『黙殺』との関係を考察した本

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 米国の第32代大統領、ルーズベルト(本書はローズベルトと表記)は1945年4月12日脳卒中のため急死した。そのあとを引き継いだのは、副大統領のトルーマンだった。太平洋戦争で、日本の敗色が濃厚になっていた時期だった。米国史上4選の大統領はルーズベルトだけであり、偉大な大統領のルーズベルトからすれば、副大統領はお飾りにすぎなかったため、トルーマンは重要政策の内容を知らされないままに大統領になった。  

 その結果、日本に原爆が投下され、ソ連が日本に宣戦布告をするという不幸な結果を招いたことを、仲晃著『黙殺』(NHKブックス、上下) は多くの資料を駆使して解き明かしていく。  

 米英ソ3カ国首脳がドイツのポツダムに集まって、第二次世界大戦の戦後処理と日本との間の終戦について協議を続け(ポツダム会談)、7月26日にポツダム宣言として発せられる。この宣言には、米英と中国が加わるが、ソ連の名前はない。日本の鈴木貫太郎内閣は、宣言に対し「黙殺」するという姿勢をとったため、戦争終結を早め兵士の犠牲を最小限にとどめようと考えたトルーマンが、開発に成功した原子爆弾の投下を指示した―という説が戦後流れ、定着しつつあった。仲はこの説が真実かどうかこの本の中で検討を加え、「NO」であることにたどりつく。  

 トルーマンは、日本との戦争では、ルーズベルトが唱えていた「無条件降伏」しか選択肢はないと思い込んでいた。さらに、マンハッタン計画という原爆開発プロジェクトも大統領になって初めて知り、開発成功という報告に接すると、原爆の投下に積極的な姿勢をとり、保守派の有力者の意見も入れ広島(ウラン型)、長崎(プルトニウム型)に大量破壊兵器を使用する。ポツダムではソ連も入れた協議をしていたにもかかわらず、宣言にはソ連を除外、中国(中華民国)を加え、米英中の3カ国による宣言を発表する。怒ったソ連スターリンは、急いでヨーロッパ戦線の部隊を旧満州に転戦させ、不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告する。  

 歴史に「if」はないというが、老獪なルーズベルトがもう少し長生きしていたら状況は変わったかもしれない。原爆成功を交渉の条件(日本の早期降伏)に打ち出し、広島と長崎に原爆は投下しなかったかもしれないし、ソ連の旧満州や日本領への侵攻も抑えられたかもしれない。  

 ポツダム宣言に対し、鈴木内閣は論評せずに「黙殺する」という姿勢で内容を公表。これに対し国策通信社・同盟通信社は「黙殺」を「ignore 」(無視)」と翻訳して海外に発信、これを見たAPやロイターは「Reject(拒否)」という強い言葉に置き換えて報道したという。その結果、こうした姿勢に怒ったトルーマンが原爆の投下を命じる大きな原因になったのではないかという説が有力になった。戦後、鈴木は「黙殺と発言したのは遺憾に思う」と語っている。  

 だが、仲の調査の結果、トルーマンはそうした日本政府の姿勢をあまり問題視せず、はじめから「原爆ありき」のように、原爆投下にこだわったという。原爆投下を正当化する理由として、米軍の犠牲者が100万になるという説もあったが、それが伝説になった経過についても、多くの頁を割いている。  

 本書の中で仲は、英国のチャーチル首相が原爆に対し「原爆ってやつは(人類に対する)第2の神罰」と述べたことを明かしている。仲によると、原子の火を人間が手に入れたことで、第2の神罰が下るかもしれないと、チャーチルは文学的表現で警告したのだという。福島原発の事故はチャーチルの警告を裏付けたと言っていい。チャーチルの『第二次大戦回顧録抄』(中公文庫)には、チャーチルが米国から原爆開発の成功と日本本土へ投下するという通告を受けたことについて書かれている。

 それによると、1945年7月17日、米国のスティムソン国務長官チャーチルを訪問、「赤ん坊は、満足に生まれた」と書かれた紙を差し出した。スティムソンは「この意味はニューメキシコ砂漠で実験が行われたということです。原子爆弾が実現したのです」と語り、チャーチルは直ちに訪米し、トルーマン、マーシャル将軍、リー提督と会い、そこで詳しい説明を受けたのだ。

 イギリスはまだ実験が行われていない7月4日に、原子爆弾を兵器として使用することに賛成してことも書かれ、「この新兵器によって、われわれはこれ以上都市を破壊せず、また敵と味方の生命を同時に救いうることになった」とも記した。広島、長崎の惨状を思いやる気持ちはここにはない。 

 ポツダム会談を若き日のケネディ大統領も新聞記者として取材したことも、本書は紹介している。トルーマンの後継大統領になるアイゼンハワーも、欧州の連合軍司令官として会談の舞台をセットしており、33代(トルーマン)、34代(アイゼンハワー)、35代(ケネディ)と3人の大統領がポツダムに顔をそろえたことも世界史のなかの一つのエピソードとして興味深い。  

 著者の仲は、共同通信社アメリカ問題を中心に取材し、退職後は桜美林大学国際学部の教授として、現代アメリカ政治、日米関係論、アメリカのジャーナリズムを担当した。この本は、仲のそれまでの活動の集大成といえるもので、読み応えのある名著である。

 私がポツダムを訪れたのは、2008年9月のことだ。1989年11月9日のベルリンの壁崩壊、1990年10月3日の東西ドイツの統一により、東側のポツダムにも多くの観光客が詰めかけるようになっており、私もその一人になったのだ。