小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1390 戦後史に残る町 ドイツ・ポツダムのこと

画像

 戦後70年の歴史を考えるとき、以前訪れたことがある一つの町のことが頭の中に浮かんでくる。ドイツのポツダムである。米国大統領(トルーマン)、英国首相(チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)の名前で日本に対し無条件降伏を求める「ポツダム宣言」はここで出された。

 国会で質問された際、安倍首相が「つまびらかには読んでいない」と答弁し、物議を醸した13カ条からなる宣言だ。 ポツダムはベルリン中心部から26キロの歴史ある町だ。第二次大戦に降伏したドイツは東西に分断され、ポツダム旧東ドイツになった。

 ポツダム宣言が出されたのは1945年7月26日のことで、ポツダムではヒトラー率いるナチス・ドイツが連合国に降伏したあと、1945年7月17日から8月2日にかけて米国、英国、ソ連3カ国による首脳会談が開催され、大戦の戦後処理、日本との終戦について協議が行われた。

 宣言はルーズベルトの急死で大統領に昇格した米国のトルーマンの主導で、会議に出ていない中華民国を入れ、ソ連は除外して出された。怒ったソ連首相スターリンは急きょ、ヨーロッパ戦線の部隊を旧満州に転戦させ、日本との不可侵条約を破棄して旧満州に侵攻させたという経緯がある。

 会談に使われたのは、ドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン の狩用の館として1917年に建てられたツェツィーリエンホーフ宮殿で、そう大きな建物ではない。1917年といえばドイツを中心とする中央同盟国と英国、フランスなどの連合国(後に米国、日本も連合国側で参戦)が戦った第一次世界大戦(1914~1918)さ中のことであり、300年続いたロシアのロマノフ王朝が崩壊した年だ。

 この段階ではドイツは連合国に負けるとは考えていなかったのだろうが、翌年、戦争は中央同盟国の敗北で終結、ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれる。皇太子は第一次大戦に第5軍の司令官として参戦、戦後は父親とともにオランダに亡命したが、皇太子はその後帰国を許され、ヒトラーナチスを支持した時期もあった。

 しかし、友人がナチに粛清・殺害された長いナイフの夜事件以後は政治活動をやめ、第二次大戦後の1951年にポツダムとはかなり離れたドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州で亡くなった。だから、皇太子がツェツィーリエンホーフ宮殿で過ごした時間はそう長くはないはずだ。

 この建物やフリードリヒ大王(フリードリヒ二世)の離宮サンスーシ宮殿を含む150を超える建築物、約700ヘクタールの公園・地域は1990年、92年、99年に世界(文化)遺産に登録されている。ツェツィーリエンホーフ宮殿はブドウ棚で知られるサンスーシ宮殿の北東に位置する新庭園地区にあり、ポツダム会談の場所として観光客が集まっている。

 なぜ、この場所でポツダム会談が開催されたのだろうか。その間の事情は仲晃著『黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命』(NHKブックス)に詳しく書かれている。ルーズベルトの急死で大統領になったトルーマンの指示でソ連に派遣されたホプキンズ特使は、スターリンとの会談で米英ソ3カ国首脳会談を米国で開催したいと提案した。

 しかし猜疑心が強いスターリンは身の安全を考え、ソ連が軍事占領していたポツダム・バーベルスベルクを逆提案、結果的に首脳会談はツェツィーリエンホーフ宮殿で開催され、首脳たちはバーベルスベルクの高級住宅地に滞在したのだという。 ポツダムは長く続いた冷戦によって西側とは壁で隔てられ、現在もこのバーベルスベルクでは、ベルリンの壁の残骸の一部を見ることができる。

 現在ポツダムブランデンブルク 州の州都(人口16万人)となっている。 私の知人の新聞記者はベルリンの壁崩壊に遭遇し、長い記者活動の中で一番印象に残る取材だったと話してくれた。ベルリンの壁崩壊は、冷戦に終わりを告げる歴史的ニュースだったのだ。

 写真はツェツィーリエンホーフ宮殿

136 久間氏の辞任に思う 無定見な政治家の失敗

328 中欧の旅(2) 歴史の舞台裏・ポツダム

700 いい人たちがなぜ? 悲劇の島を描いた「終わらざる夏」

949 原爆投下とトルーマン 「黙殺」との関係を考察した本

1388 繰り返してはならない「日本の一番長い日」 8月15日を前に