小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

925 富山で出会った元野球少年 立山連峰の下で挑戦の人生

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 先日、富山・立山連峰の話を書いた。圧倒的な姿に言葉は不要と思った。その富山でこよなくこの山を愛する人に出会った。富山県高岡市の作道和宏さん(70)である。63歳でバス運行会社を起こし、68歳で障害者自立支援のNPOを立ち上げた起業家だ。

 悠々自適の生活が可能なのに、それを捨て多難な道を選択した作道さんの話は心にしみた。 作道さんは1942年1月30日、自分の苗字と同じ富山県作道(つくりみち)村(現在の新湊市)で生まれ、野球に明け暮れる青春時代を送った。

 夏の甲子園大会準々決勝で徳島商業坂東英二と延長18回投げ合い、一躍富山を有名にした魚津高校の村椿輝雄投手は2歳上だ。アルバイトをしながら中学、高校を卒業した作道さんは富山にある日本重化学工業に入り、野球を続ける。

 会社では人事労務畑に所属して高度経済成長時代を送り、2000年、会社が経営不振で希望退職を募った際、これに応じて40年の日本重化生活にピリオドを打った。その後、タクシー会社の副社長を経て、2005年バス運行などのエムアールテクノサービスを設立する。63歳のときだった。

 日本重化勤務時代、関連の新潟県糸魚川市の姫川温泉のホテルに出向し、経営を立て直したこともあり、退職後は起業を考えたていた。それを奥さんに打ち明けると、「これを使いなさい」と作道さんが想像もしていなかった額の貯金を出してくれたそうだ。

 ホテル経営時代、石川県能登半島和倉温泉の有名旅館、加賀屋で半年間研修を受け、サービスの在り方を徹底して学んだ作道さんは客や地域に愛される会社運営を心掛け、この6年で大型バスを含めてバス7台を所有、従業員が60人を超える企業に成長させた。

 作道さんの挑戦はこれで終わりではなかったのだから、凡人の私は驚くばかりだ。2009年10月、所属している中小企業同友会障害者問題部会が京都の障害者就労支援のNPOを見学した際、障害者が生き生きとした表情で出迎えてくれたことに体が震えるほど刺激を受け、障害者の支えになることをやりたいと思い、それを実行する。

 68歳をすぎた2010年4月「NPOすこやか26」を設立、JR伏木駅に近い住宅街の改修した民家で就労継続支援B型の作業所を開所した。それから2年足らずで、2つの施設を持ち、計23人の障害者が勤務し、ネジなどアルミ部品の袋詰め、ニット商品の糸抜き、委託を受けた会社の清掃などの作業に取り組んでいる。

 酒を飲まない作道さんは資格を取ることに挑戦し続けている。33歳でブルドーザーの免許(大型特殊)、ホテル出向時代は調理師免許、さらに1級ヘルパー、衛生管理者、運行管理者などの資格も持ち、62歳でバスを運転できる大型2種免許試験を受け、満点で合格したという。現在も会社経営とNPOの運営という2つの顔を持っている作道さんの生き方は、酒飲みの私にはとうてい真似ができない。

 日本重化時代、東京本社で3年間勤務をしたことがあるが、電車通勤をしながら「山のない東京はなじめない」と思い続け、富山に戻ったというから、立山連峰は作道さんにとって生活の一部らしいのだ。

 作道さんの高台の家からは立山連峰が見え、山に向かいながら「きょうはこれから何をやろうかと考える」のが毎朝の日課と聞いた。 私はといえば、毎朝犬を連れてせわしげに小さな池の周りを歩いている。頭の中は雑念であふれている。これも人生なのである。