小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1901 富山平野は「野に遺賢あり」 中国古典の言葉から

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「野(や)に遺賢(いけん)なし」。中国の古典「書経」(尚書)のうち「 大禹謨(だいうぼ)にある故事である。「民間に埋もれている賢人はいない。すぐれた人物が登用されて政治を行い、国家が安定しているさまをいう」(三省堂大辞林)という意味だ。現代日本の政治にこの言葉が当てはまるかだろうか。私はそうとは思わない。日本だけでなく、海外諸国に目を向けても首をかしげざるを得ない情けない状況が続いている。  

 ここに出てくる「大禹謨」というのは、今から約4000年前の紀元前1900年ごろに、夏王朝(伝説、実在説双方に分かれる)を創設した禹という人物の政策(はかりごと)のことをいう。禹は黄河の氾濫を収めた功績により帝位を受け、中国最初の王朝を創設し民を安定させたといわれる伝説の英雄である。  

 作家の陳舜臣は『中国五千年』(平凡社)という中国の歴史を書いた本の中で、禹を神話時代の人と記している。陳によると、「名君が名宰相を得て、国運を盛んにするというのも、中国史の一つのパターン」であり、禹は益という人物(賢者)に政治を任せて成功したという伝承があるそうだ。禹は現在の浙江省会稽で巡幸中に死んだとされ、後継者に益を指名したが、益が遠慮したため禹の子の啓が王位に付き、夏の世襲王朝(17王、14世)が続くことになったという。

「野に遺賢なし」ではなく、「野に遺賢あり」という言葉が宮本輝の『田園発港行き自転車』(集英社文庫)という長編小説に使われていた。富山平野で流水客土(赤土を水と混合し用水路を通して水田に引き入れる土地改良)を実施して、不毛の地だった扇状地を豊かな田園に変えた話の中に、巧みにこの言葉を盛り込んだのだ。民間に賢人が残っていたという意味である。  

 この造語は、富山県内を自転車で旅する主人公の絵本作家とその友人の女性2人が北東部にある下新川郡入善町に差し掛かった際に、見事な田園風景が広がる背景を知った2人の口から出てくる。同町は黒部川下流東岸の扇状地にある。かつて黒部川は度々氾濫し、しかも扇状地特有の砂質、浅耕土に加え、川水の低温により米の生産性は低かった。1950年代に流水客土事業が行われ、富山県内でも特に収量の多いコシヒカリなど良質米の米どころになった歴史がある。宮本は、こうした町の歴史を調べ、中国の古典を例にセリフを考えたのだろう。  

 さて、現代日本は冒頭に書いたように、「野に遺賢なし」とは言えない。首相官邸が人事の実権を握ったことにより、官邸への官僚たちの忖度、ゴマすりぶりが目にあまり、コロナ禍という歴史に残る大災厄が追い討ちをかけるように、国の安定が失われ、モラルハザードが常態化しているからだ。孔子の言葉を集めた「論語」にも禹の評価がある。泰伯編で孔子は禹について次のように語っている。

「私は批判するところがない。禹は自分は粗食をするが、祖先の祭祀は十分に行い、ふだんは粗末な衣服であったが、祭礼のときに切る祭服は、美々しく、住居は高層にしないが、灌漑の用水路作りには力を尽くした。禹については、私は批判するところがない」(加地伸行全訳注『論語講談社学術文庫)。  

 つい最近まで南米ウルグアイの大統領を務めたホセ・アルベルト・ムヒカは、質素な暮らしから「世界で最も貧しい大統領」といわれた。私はムヒカこそ、国は変わっても禹の再来のような大統領だったと思うのだ。そんな政治家は、今の日本には見当たらない。  

 写真 昨年の台風で倒れ、伐採されたデイゴにひこばえが伸び、赤い花が咲いた (地図を見ながらの想像の旅を再開しました。今回は中国、南米、富山です)  

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