小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1120 旅の終わりに 挫折・大震災・病と闘いながら

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 旅の多い生活に区切りをつけることになった。2006年12月から始まったこの生活は、旅をして人に会い、話を聞いて文章を書くのが仕事だった。これまで約100回の旅をした。初めての旅で利用したのは石川県の小松空港で最後の旅も偶然、小松空港着の飛行機を使った。

 旅のスタートとなった石川で小松空港に近い田園地帯にある松井秀樹記念館をのぞいたが、7年後に彼が国民栄誉賞を受賞するとは想像もしなかった。最後の旅を含めて、最近の旅で印象に残る4人の男女に会うことができた。国民栄誉賞の松井に劣らないほどのすごい人たちだった。

  ▼大けがを乗り越えて

 仙台市の高橋由佳さんは、大けがを克服して障害者らの心の相談をするNPO「「Switch」を設立した。もともとレーシングカートのライダーとして社会人生活をスタートした高橋さんは、結婚してこの仕事を辞め、その後は福祉関係の職場で働く。バイクに乗るのが趣味で大震災の前年、オフロードでバイクが転倒、左足大腿部を骨折して3カ月の入院生活を送る羽目になり、退院後もしばらく車いす生活を余儀なくされた。前途に希望を失った高橋さんは、焦る気持ちでインターネットの画面に見入った。

  そんなとき様々なNPOの存在を知る。若者たちの笑顔が多いホームページを見て「悲観している場合ではない」と気が付き、友人とともにNPOをつくることを決心したのだった。だが、大震災は高橋さんの心を揺さぶり、設立したばかりのNPOの解散も考えた。その気持ちを変えたのは石巻市南三陸町でのボランティア活動だった。被災地に入った高橋さんは障害者の支援がこれまで以上に必要と痛感し、解散を思いとどまり、NPO活動をスタートさせたのだ。いま高橋さんは仙台と石巻を往復する忙しい毎日を送っている。バイクの趣味はやめ、これからは自転車で風を切って走ることを考えているそうだ。

  ▼イルカとともに

 北海道室蘭市の笹森琴絵さんは、病気がきっかけで海洋調査・観察の仕事へ導かれ、いまでは海の専門家としての道を進んでいる。教師生活3年目、これからという時に笹森さんは交通事故に巻き込まれて重いムチ打ち症になり、膵臓の病気も併発し、体重が38キロまで落ち込むなど体が衰弱し、勤務先の中学校を退職した。その後病気は回復したものの、前途に希望を失っていた笹森さんに1996年イルカ・クジラウオッチングのガイドという仕事が舞い込み、笹森さんが立ち直るきっかけになる。2年後には室蘭でイルカ・クジラに関する国際フォーラムが開かれ、笹森さんはこの事務局を担当し、海洋生物の研究調査に大きく傾斜していく。

  現在は海洋生物関係の調査・研究・撮影の専門家で組織する「orca.orgさかまた組」(さかまたはシャチのこと)のリーダーとして活躍している笹森さんは、これまでの人生を振り返って、こんなふうに話してくれた。「イルカが私の第二の人生に導いてくれた。海は広くて深く、はてしないが、海とのかかわりを持って私の人生も深くて豊かなものになった」。含蓄がある言葉だと思う。

  ▼息子の一言が

 宮城県石巻市の兼子佳恵さんは、東日本大震災後の息子の一言で被災者支援活動に入った。文字通り「重い一言」だった。東日本大震災で大きな被害を受けた石巻市。兼子さんの自宅一軒家も半壊し、兼子さん自身は2階に避難して助かった。4人家族のうち夫と高校3年の長男はその日のうちに無事戻ってきたが、中学2年の次男は翌朝水が引かない中、物干し竿を杖代わりにして戻ってきた。

 彼は「避難所に行って手伝いたい」と話したが、兼子さんはそれを認めず、3日後にようやく許した。彼は「何でもっと早く避難所に行かしてくれなかったの」とつぶやいたが、これが兼子さんの心にとげのように突き刺さったのだという。

  兼子さんは言う。「母親としての判断は間違いなかったかもしれないが、人としての判断は間違いだった」。兼子さんがすごいのは、その後すばやく動き出し、仲間の主婦たちとともに石巻復興をサポートするNPO石巻復興支援ネットワークをつくったことだ。子どもの育成サポートや女性、若者を対象にした人材育成など被災地の復興につながる事業に取り組む原点は、息子の人を思いやる心だったのだ。

  ▼オリーブ栽培に情熱

 今回の旅は、石川と新潟を回るものだった。新潟では病身を押してオリーブ栽培に取り組む元写真家に会った。障害者の自立支援のNPOであるひなたの杜を創設した橋元雄二さんだ。NPOは息子の大樹さんに代表を委ねたが、2009年から始めたオリーブ栽培は、橋元さんのライフワークになっている。

 新潟で、なぜオリーブなのだろうか。障害者の労賃が低いことに疑問を持った橋元さんは農業大学校にも通って打開策を考え続けた。多くの文献に目を通した結果、新潟でもオリーブ栽培ができるのではないかと着目した。他の果樹に比べ労力が5分の1程度で、加工食品としても多様な用途があり、木としての寿命も数百年と長く、障害者の就労支援には向いていると思ったからだ。

  市内の耕作放棄地約4000坪が橋元さん父子と障害者の夢の土地だ。これにまでに約750本のオリーブの苗を植え、最近その一部の木の花が咲いた。オリーブ=温暖な地域での栽培と思いがちだが、寒い新潟でも手入れもしっかりやれば、栽培が可能ということを橋元さんは実証したのだ。オリーブ畑は砂地の斜面に広がり、遠くには雪を抱いた飯豊連峰が見えた。

 このオリーブが大きく成長し、障害者の労賃アップにつながるまでにはまだ時間がかかるだろう。脳梗塞で体調不安を抱えた父親を息子の大樹さんが支えて力になっているから、このオリーブ畑が障害者の自立の象徴として存在感を持つ日が必ずやってくるはずだ。そんなことを考えながら、オリーブの小さな花を見つめていると「近い将来、たくさんの実を付けますよ」と、オリーブが語りかけてきたような気がした。

 

写真:オリーブ畑に立つ橋元さん父子