小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

866 キンモクセイの季節 オトコエシも咲いた

画像 この時期になると「馥郁」(ふくいく)という言葉が使われる。「よい香りが漂ってくるさま」のことを言うのだが、その代表がキンモクセイではないか。ことしの夏は、昨年に続き暑かった。そのためにこの花の付きもよく、散歩をしているとあちこちから、強い香りが漂ってくる。

 もう10月だ。残暑も終わり、散歩コースにある樹木も秋色に染まりつつある。 この花は、中国が原産地だという。日本では、北限が東北で北海道では見かけない。七夕で知られる仙台の一番町には、この花がかなり植えられている。

 ヨーロッパやアメリカあたりでは植物園にあっても、民家の庭にはないようだ。だから、この地域に住む人たちは、このような甘い香りは知らないのだろう。そう思うと、この季節に散歩をすることはぜいたくなのかもしれない。

 実は、わが家にはギンモクセイの木も1本だけ植えられている。キンモクセイに比べ、花の香りは薄く、花も目立たない。ほとんど花が咲かない年もあり、この花の存在を見落としてしまうこともあるほどだ。 キンモクセイの花期はそう長くはない。林芙美子の言うとおり「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」なのだ。

 ところが、散歩の道筋にある「オトコエシ」(男郎花)という白い花はいつまでも咲き続けている。オミナエシ(女郎花)に似ているが、黄色い花のオミナエシに比べ、名前の通り強そうだ。散歩道の近くにある小さな森の手入れをしている森林ボランティアが、隣接する調整池に生えているこの花の保存運動をしている。

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 オミナエシと同様、以前は珍しい花ではなかったが、都市化現象の進行で都市部では珍しい花になってしまったようだ。こんなことを書くと保存運動をしているボランティアに怒られるかもしれないが、この花は珍しい存在にしても、立ち止まって眺めるだけの美しさはない。 キンモクセイから話が飛んでしまった。

 また、話が飛ぶことをお許しいただきたい。 ことしは散歩コースのトチノキの実が少ないことが気になった。例年ならかなりの実が路上に落ちて、秋到来を感じさせるのだが、台風が来た後でも、落ちた実はほとんど見かけなかった。9月に訪れたノルウェーの田舎で木全体に実をつけた姿を見ただけに、少し寂しい思いをした。

 杉本秀太郎著「花ごよみ」の「木犀」の項に、広辞苑新村出の歌が紹介されていた。 木犀の夕しづもりの遠き香にさそはれ出でてちぎれ雲みつ 静かな夕方、遠くからのキンモクセイの香りに誘われて外に出ると、ちぎれ雲が浮かんでいるのが見える―。 来年こそ、被災地の人たちがこんな思いを味わうことができるのだろうか。