小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

840 ニーハオ店主の個人史(3) 14歳、大人に交じり建築現場へ

画像 当時、旅順はソ連人が多くて、全人口の半分くらいいたそうです。全部軍人ではなく、軍人の奥さんや子どももいました。ソ連人は毎朝石炭のガラをごみ場に捨てます。中にはパンの耳、ジャガイモの皮、キャベツの外側の葉を混ぜて捨てるのです。

 私が12歳、章夫が9歳のころ、毎日夜が明ける前にソ連人が住んでいた所に行き、石炭のガラと一緒に捨ててあるジャガイモの皮、パンの耳などを拾い、大豆の搾りかすを少し入れた物を皆で食べていました。その時、栄養不足で雄夫の体が腫れ、腹が大きく膨らんで動かなくなりました。私はお腹が空いても働きに行きました。

 そして、ついに母も過労で倒れました。お金がないので薬も買えず、病院にも行くことができません。ある池の魚がこの病気を治すとある人に教えてもらい、私は凍った池に行ってこの魚を3匹取って母に食べさせました。3、4回取ってきました。母の病気はよくなりましたが、まだ働けません。

 その時、ある人が母と相談して弘行と雄夫を別の人にあげれば、家族が減って生活が少し楽になるのではと言いました。そして農村にいる黄というおばさんがやってきて、25キロのトウモロコシの換わりに弟たちを連れて帰るつもりでしたが、母は「生活がどんなに苦しくても子どもはあげません。死ぬなら一緒に死にます」と断りました。 こんな生活が3年くらい続き、家の物は売ってしまいだんだんなくなっていきました。

 母の金の指輪一つでトウモロコシのパン2つしか換えることができませんでした。そして、仕方がなく友だちが養父を紹介してくれて彼は私たちと一緒に生活を始めました。これでも生活は苦しく、私は建築現場の作業員として働きに出ました。1942年の旧暦の2月2日のことで、私は14歳でした。外はたくさん雪が降っていましたが、靴は破けて親指が外に出ているし、靴下もなく、服もほとんどありませんでした。

 大人と同じように仕事をやり、2人で150キロの物を担いで50メートルぐらい運びます。一日働くと手や足や背中が痛くなり、家に帰ってから布団にもぐりこんで悲しさに泣きました。それでもみんなが心配しないよう、気付かれないように注意しました。そんなにして働いても1日で1キロのトウモロコシと少しのお金しかもらえませんでした。どうしても食べ物が少ないので、お腹がいつも空いていました。

 1950年、家族は全員で農村に引越し、畑を耕すことにしました。私は朝早く起きて収穫した野菜を担いで10キロぐらい離れたソ連人が住む所で売りに行き、肥料用の糞を拾って帰る日が続きました。章夫は学校の成績がよく、いつも3番以内で先生からよく褒められました。

 でも、私たち兄弟を見ると「小日本」という悪口を言う人がいました。私は体が丈夫でしたので、中国の子どもたちに「小日本」といわれると、けんかをするようになり、特に弟たちがいじめられた時は絶対に許せませんでした。でも、中国にはよい子どももいて、私がけんかをしている時、私を助けてくれるような友達もいました。(4回目へ続く)