小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

839 ニイハオ店主の個人史(2) 終戦・貧窮の生活に

画像私は薩拉斉県にいた時、馬に乗って薩拉斉を2時間で一回りしました。当時車の燃料はガソリンではなく木炭でしたので、馬は車より速く走ることができました。1945年、日中戦争が終わりに近づくと、人々の生活は大変苦しくなりました。 夜、近くで戦争があると、「ピューンピューン、ガーンガーン」と、ものすごい音が聞こえてきました。朝、外に出てみると、大通りには沢山の死体が転がっていました。兵隊さんだけでなく、市民の死体もありました。むしろ市民の方が多かったように思います。 私たちの住んでいた所は戦場になり、とても危険な状態でしたので、この年の6月、母は私たち兄弟4人を連れて旅順へ避難しました。当時、男の人は16歳から年配者まで鉄砲を持って戦わなければなりませんでしたので、父は私たちと一緒に戻ることができませんでした。 その時、父は「もし自分が死んでも、あるいは帰らなくとも兄弟4人が大学まで生活できるように」と言って、貯金通帳を渡してくれました。当時のお金で一人5万円ずつくらいあり、それぐらいあれば4人が大学を卒業することができるはずでした。 父とそこで別れ、以来手紙もないし、連絡も取れなくなりました。終戦になっても父が帰ってこないため、私たちは日本に帰ることはできませんでした。1人でも連れて帰るのは大変でしたので、4人の子どもを連れて日本に帰るのは、母にとってもとても無理なことでした。そのため近所の人と相談すると「友達がいっぱいいるのだから、中国で生活してもいいじゃないか。日本へ帰ってもうまくいくかどうか分からない。もう少し我慢して待っていると、お父さんも帰ってくるかもしれない」と言われました。 戦争が終わった当時、私は中国語が全然分かりませんでした。日本人と分かると危険なので、劉承雄という中国名に改め、旅順の農村に住んでいる母の妹の家に隠れて中国語を勉強しました。ある程度話すことが出来るようになると、母のそばへ帰って働きました。12歳の時でした。私と章夫が一緒になってソ連人が住むところに行き、石炭のガラ(燃えカス)を拾って市場へ売りに行きます。 1回多いときには2角(現在は1角が1・3円程度)ぐらいで売れました。そのお金でピーナツと飴を買ってソ連軍のいる所で売るのです。少し儲かったら、そのお金で「ヘレバ」(ロシア語の黒いパン)を買って、弟たちに食べさせました。 父が貯めていてくれたお金は使えなくなってしまい、母は掃除の仕事をしていました。私たち5人の生活は、一日一日苦しくなっていきました。毎日私と母がどんなに働いても食べ物を得ることは困難でした。そして食べる物も着る物も燃やす物も次第になくなっていきました。(続く)