小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

828 緑の島・気仙沼大島にて 机上よりも現場を

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 雪の研究で知られる中谷宇吉郎は、師である寺田寅彦同様、随筆家として多くの名エッセーを残した。その一つに「自然と災厄」という文章がある。その結びに考えさせられた。中谷は書いている。 「火災と限らず、地震の場合でも津浪の場合でも、危機に瀕してよくその災害を最小限に食い止めた人々は、ある種の知識階級の人たちよりも、篤農家型の人に多いようである。この点はさらに論議を必要とするが、本文ではその示唆を提出するに止める」。

 私なりに解釈すると、災害時においては、学者と称する人たちの意見は机上の空論であり、現場でその地域と向き合っている人たちがリーダーとして犠牲の拡大を防いだということなのだ。

 東北の被災地に行ってきた。震災後これで4回目になる。いずれもが心が重い旅だった。仙台から石巻を経由して、南三陸に入る。テレビの映像で何度も見た光景が広がる。 それは空襲に遭い焼け野原になった東京の写真と酷似していた。がれきの中を走ると、道は途中で途絶えている。それを何回も繰り返した。

 この町の漁師たちに会い、いかに海に入る日を待ち望んでいるかを知った。ある漁師は「いつの日か三陸水産業を以前のような活気ある姿に戻したい」と話してくれた。 南三陸から気仙沼に入った。港に面した魚市場周辺は、がれきの山と魚の腐ったものすごい臭気が漂っている。この界隈をなぜか車は抜け出せない。30分以上もぐるぐる回り続ける。目的地は気仙沼大島行きのフェリー乗り場なのだが、要所、要所に立っている警備員に聞いても要領を得ない。そのために時間を要したのだ。

 この周辺の被害は甚大であり、亡くなった人も少なくない。そうした人たちの魂が「もう少し付き合ってください」と言っていたのではと、同行の人と話した。 フェリーに乗って約20分。東北最大の離島といわれる大島に渡った。緑に包まれたこの島も、巨大地震と大津波で大きな被害を受けた。以前にお世話になった民宿は、家の形は残っていたが、内部は津波で洗われ、再生が不可能だという。

 この民宿のご夫婦は高台に住む息子の家に避難して無事だった。 島の避難所で津波から逃れ、間一髪助かった人たちの話を聞いた。その内容は次回以降に書きたいと思う。それにしても、こうした大災害で生き延びるには普段から周到な避難の準備をするのはもちろんだが、運に左右されるのだと思い知った。

 昨日で大震災から3カ月になった。もしかしたらこの震災も原発事故も夢ではないかと思った人は多いのではないか。だが、現実なのだ。さらに科学者たちは、力のなさを感じたに違いない。 中谷宇吉郎が危惧したように科学者という知識人は、未曾有の大災害に全く力を発揮できなかった。もちろん、それを責めることはできない。

 一口に科学者といっても、その幅は広い。しかしどの分野でもこの大震災に負けてしまったといっていい。 その結果、机上の空論がいかに現実とマッチしないか少しは分かったのではないか。科学者たちが中谷の指摘に反省し、叡智を結集しなければ日本の復興の速度は遅くなるだろう。そんな思いを抱きながら、被災地を後にした。仙台から新幹線に乗って間もなく午後2時46分になった。 (写真は、大島の船着き場。ほとんど津波にやられた)