小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

794 運命論者にはなりたくないが・・・ 9日ぶりに生還した祖母と孫

 大津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市で9日ぶりに80歳の女性と16歳の男の孫が救助された。

  昨年8月に起きたチリの鉱山落盤事故では、鉱山作業員33人が地下634メートルの坑道に閉じ込められ、69日後に救出されるというニュースが世界中を駆け巡った。それと同じように、救いを感じるニュースだ。

  きょう現在で2万人以上の死者・行方不明者が出ている中、命の火を灯し続けて生還した2人に「よく頑張りましたね」と声をかけてやりたいと思う。

  2人は地震発生後、倒壊した家の下敷きになったが、わずかな空間があり、近くの冷蔵庫からヨーグルトやコーラ、水を飲むことができたのだという。きょうになって孫ががれきの下から脱け出し、屋根に上って救助を求めているところを警察官に発見されたのだ。少年は高校の試験休みで仙台から祖母宅にきていたというから、おばあちゃん思いの優しい孫だったのだろうと思う。

  今度の大災害を通じて、人間の生命力の強さとはかなさを実感している。私は運命論者ではない。明治時代の作家、国木田独歩は「運命論者」という小説を書き、自身を「余は半面において運命論者だ」と述べている。独歩と同様、今回のような大災害に遭遇すると否が応でも運命を考えてしまう。

  大地震と大津波で街全体が廃墟になってしまった岩手県陸前高田市に従姉が住んでいた。子どものころ、よく顔を見た人だった。夫は既に亡くなっていて、子どもたちが独立してこの街を離れ一人住まいだったという。

  災害後、子どもたちが必死に連絡を取ろうとしたが、従姉の所在は確認されなかった。ようやく1週間して避難していて無事だったことが確認された。運が従妹の味方をしたのだろうか。

  詩人の宮沢賢治は、明治三陸地震年(M8・2~8・5、1896年)の年に岩手で生まれ、昭和三陸地震(M8・1、1933年の3月3日)の年に亡くなっている。そのためか、良寛の研究家、北川省一は「わが宮沢賢治は大地震によってこの世に迎えられ、大地震によってあの世におくられた」と書いている。

  賢治が愛した岩手。そのリアス式海岸沿いは、津波によってことごとく破壊されてしまった。宮城、福島の海岸も同様だ。しかし、自然には復元力がある。もちろんそれ以上に人間は強くてたくましい。美しい太平洋岸の街々が必ず甦ることを信じている。