小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

808 三陸大津波の連鎖を断ち切ろう 吉村昭の記録文学

画像  吉村昭記録文学「海の華―三陸沿岸大津波」を出版したのは1970年7月のことで、これを「三陸海岸津波」と改題、文庫本として再出版したのは1984年8月だった。 明治29年(1896)と昭和8年(1933)の津波、昭和35年(1960)のチリ地震津波の3つの津波について現地を取材し、資料を当たって、当時の状況を克明に描いた。

 この本の中で吉村は、これらの大津波を経験した古老の「津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、いまの人たちは、いろいろな方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」という言葉を紹介している。

 東日本を襲ったマグニチュード9という巨大地震と広範囲に及んだ大津波は、古老の言葉の半分が当たり、半分が違っていたことを示している。 吉村によれば、当時岩手では津波を「よだ」という言い方をしたという。その岩手で明治、昭和と続いて、大きな被害を受けたのが田老町(現在の宮古市田老地区)だった。

 明治29年6月15日の明治三陸地震津波では、岩手県内で2万1千人を超える死者が出て、そのうち田老町(村)では1859人が亡くなり、昭和8年の三陸地震津波では死者・行方不明者911人が出た。 この後、町は防潮堤の建設に乗り出し、昭和54年までに2433メートル、高さ10メートルの日本でも最大級の防潮堤を建設した。 しかし、この防潮堤を乗り越え、大津波は田老を襲った。

 防潮堤があるからと油断して避難が遅れた人も少なくない。その結果、4500人の住民のうち死者・不明者が230人に達し、またしても津波の甚大な被害を受けてしまった。 吉村は、古老の言葉を紹介し「すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のものだけに重みがある」と書いている。この言葉の前には「三陸沿岸の人々は、津波に鋭敏な神経を持っている。もし海に異常があれば、その人々は事前にそれを察知するに違いない」とも記し、吉村は過去のような甚大な津波被害は避けられるのではないかとみていたようだ。

 結果的に、この吉村の想定は当たらず、今回の東日本大震災三陸は明治以来の壊滅的被害を受けてしまった。 明治の大津波被害を受けて、三陸の各地でも住宅を高台に移転する動きが目立った。しかし、吉村によればこの高所移転も年月がたち津波の記憶が薄れるにつれて、逆戻りする傾向があった。 漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。そうした理由で初めから高所移転に応じない者も多かったのだという。

 今回の甚大な被害の背景には人知を超えた巨大津波が襲来したわけだが、さらに「津波が来るからといって、宝の海を捨てられるものか」(高山文彦氏の解説より)という海を相手に生きてきた人々の思いもあっただろう。いずれにしろ、三陸―大津波という連鎖は今回限りで断ち切り、古老の言葉を実現すべき時なのだ。

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三陸には、こんな注意の標識や碑があったのだが・・・)