小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

642 郷愁感じる桑の実 口内に広がる甘い香り

画像 犬の散歩コースに調整池を囲む遊歩道がある。その遊歩道の上の斜面には2本の桐の木と、1本の山桑がある。山桑は実が熟する時期らしく、約1センチほどの黒くて小さな実がいっぱいなっている。その実を取ってジャムにしてみた。それは新鮮であり、郷愁を感じさせる味だった。

 日本の児童文学者のはしりといわれる鈴木三重吉の作品の一つに「桑の実」と題した小説がある。身寄りのない女性が画家の家に手伝いに行き、次第に心を通わせ始める。

 そんな作品だが、2人で桑の実を食べるシーンが印象に残っている。明治から昭和初期に生きた鈴木の時代には、桑の実は珍しいものではなかった。農村では養蚕用に桑の木がどこにでもあった。しかし、養蚕業が衰退した現在の日本では、桑の木は少なくなり、ましてやこの実を見る機会はあまりない。 画像 桐の木や山桑がなぜこんなところにあるのか分からない。

 近くに寄ってみると、桑の実は半分が黒く熟し、半分はまだ赤い実のままだった。家族と一緒に黒い方の実を取った。素手なので、両手は桑の実の汁で真っ赤になった。食べてみると、甘い香りが口内に広がる。持ち返って家族がジャム作りに挑戦し、完成したものをパンにつけて食べてみた。

 

 

 甘酸っぱくて、なかなかいける。家族の評判は上々だった。 画像 子どものころは、いまごろの季節になると熟した桑の実がどこにでもあった。たまに食べると、唇も手も真っ赤になり、恥ずかしい思いをしたことを覚えている。だから中学生以降は、食べることをやめてしまった。考えてみると何十年ぶりに味わったことになる。子どもの時代を思い出し、郷愁に浸った。

 桑が珍しくなったように、雷が鳴っているときに唱えると、雷が落ちないという言い伝えである「くわばらくわばら」という言葉もあまり聞かなくなった。知人の日本語がとても得意な外国人も知らないというし、若者の間でも死後になりつつあるようだ。

 その語源は諸説あるが、科学的根拠はないようだ。 韓国映画桑の葉」を見た人は思い出すだろうが、この映画によると、韓国ではかつて「桑の葉を摘みに行こう」という言葉が抗日活動家の合言葉(隠語)として使われたという。しかし、現在はこのような合言葉はないはずだ。言葉の使い方は時代とともに変化しているのだ。