小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1811 ツバメ去り葛の花咲く 雲流れ行く季節に

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 朝、調整池の周囲にある遊歩道を散歩していたら、多くのツバメが飛び回っていた。そういえば、七十二候の四十五候「玄鳥去(つばめさる)」は間もなく(18日)だ。ツバメは南へと帰る日のために、ことし生まれた子ツバメを訓練しているのだろうか。残暑が続くとはいえ、自然界はツバメだけでなく、次第に秋の装いへと移り始めていることに気が付く。  

 ツバメは神奈川県や千葉県で絶滅の恐れがある日本版レッドリストに指定されており、私の住む千葉市では「要保護生物」になっているという。それだけ都会からツバメが少なくなっているのだろう。とはいえ、近所の大型スーパーの出入り口の一つに、ツバメが巣をつくっていて、毎年ここで雛を育てているし、調整池の周辺でも見かけることが珍しくない。私の住む地域に限って言えば、ツバメは激減していないのかもしれない。  

 この遊歩道の傍らは、調整池と草地が広がっている。最近は予算が減らされ、役所の雑草の刈り取りは年1回しかない。そのため、いつしか繁殖力の強いツル性の葛が増え続け、遊歩道の一部まで葛が勢力を拡大してしまっている。始末が悪い雑草だと思っていたが、今朝この葛の花が咲いているのを見かけた。濃紺紫色の花穂である。葛は秋の七草のひとつで、花はまあまあきれいだ。葛を季題とした俳句も数多い。「山葛の風に動きて旅淋し」 正岡子規の句である。このように風情を感じる句が少なくないが、毎朝調整池でどんどん伸びる姿を見ているためか、私は葛を好きになれない。  

 調整池の遊歩道とは別に、この街には1周6・4キロの遊歩道もある。この遊歩道わきには様々な種類の木が植えられている。毎朝体操をするマロニエ広場の近くには、1本だけ残った「ナナカマド」があり、毎年秋には赤い実をつけていた。だが、今朝近くを歩いてみたら、この木が枯れる寸前の状態になっていた。実は黄色になっているが、葉はほとんどが茶色になり、全体が精気を失っている。7月の終わりまで続いた長梅雨、そのあとの猛烈な暑さに北国系の木は耐えることができなかったのだろうか。ここにはほかに数本のナナカマドがあったはずだが、みんな枯死してしまったから、土地に合わなかったのかもしれない。かつて札幌に住みナナカマドの街路樹に親しんだだけに、枯れていく木を見るのは寂しい限りである。  

 こんな自然界の動きを見つめながら、一人の若い友人のことを思った。今年になって、悲しい出来事に連続して遭遇したのだ。活動的だった母の急死と愛犬の死、さらに悲しみに追い打ちをかけるように、親友までもがこの世を去ってしまったのだ。明るく前向きに生きてきた友人だが、かけがえのない存在との相次ぐ別れに喪失感は私の想像を超えるものだっただろう。「人生でこんなに泣いたことはありません」という友人に、掛ける言葉は思い浮かばない。私はただオロオロするばかりなのである。  

 時を共にすること。  時を共にして生きていること。  そして、いつかは別れてゆくこと。  それが、人生の喜びと哀しみの根源にある。 (高橋郁男『渚と修羅』コールサック社=より)  

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 写真  1、調整池の上空を飛ぶツバメ 2、葛の花が咲いた 3、枯れかかったナナカマド 4、調整池から見える小学校のとんがり屋根  

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