小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

823 山桑の実を摘む朝 原発風評被害の福島を思う

画像 ことしも桑の実が熟れる季節になった。犬の散歩コースに、自然に生えた山桑の木があり、たわわに実がなっている。家族と一緒に早起きして、この実を摘んだ。家族はことしもジャムにすると張り切っている。 この山桑は斜面に生えているので、取るときには足元に注意が必要だが、だれでも取ろうと思えば取っていい。しかし、あまり減らないのは関心を示す人がいないからだろう。

 先日、福島に行った帰り、茅葺屋根のお宅を見せてもらった。私の子どもの頃は、茅葺屋根は珍しくなかった。しかし、日本の経済成長とともに、住宅の姿も変化し、茅葺や藁葺屋根は、飛騨・白川郷のような例外を除いてほとんど姿を消した。いまでは茅葺屋根の家は文化財といっていいほどで、希少価値があるが、その維持管理は大変だと聞いた。葺き替えの費用も安くはない。

 そんな茅葺の家の多くで、昔は蚕を飼っていた。その中心が福島県伊達郡梁川(現在の伊達市梁川町)であり、幕末から明治維新に生きた中村善右衛門という創造性に富んだ人物によって飛躍的に養蚕業は発展した。 日本の養蚕は、清涼育という自然の温度で蚕を飼育する方法から、人工的に温度や湿度を管理する温暖育へと変換したが、勘が頼りで温度管理が困難だった。

 そこで善右衛門は蘭方医が使っていた体温計をヒントに、蚕を飼育する際の適正温度を調べる「蚕当計」という温度計を1873年(天保14)に製作、日本の養蚕業の発展に寄与したのだ。 養蚕と切っても切れないのが、桑の葉だ。桑の葉は蚕の飼料として欠かせない。この地方では、かつては桑畑が珍しくなかったし、子どもたちは桑の実をおやつ代わりに食べた。

 しかし、養蚕業が斜陽化すると、養蚕農家は桑畑を桃やリンゴ、アンポ柿などの果樹園に切り替え、いまや福島は全国有数の果樹の生産県になった。だが、原発事故は、果樹農家に深刻な影響を与えている。風評被害である。

 新聞報道によると、観光農園のサクランボ狩りは、キャンセルが相次ぎ、予約は例年の50分の1しかないという。放射性物質の検査で問題なしの結果が出たにもかかわらず、旅行代理店は今後も企画はしないというし、デパートも贈答用のカタログに掲載することを見送ったとのことだ。これから桃や梨の季節を迎えるが、どこの農家も不安を抱え、福島県全体がいま原発事故の風評被害で苦しんでいる。 何とかならないのかと思う。

 福島県に住む知人はこう言っている。「日本人全体で支え合い、具体的な行動で励まし合う動きが大切」なのだ」と。心したい思いである。 のんきに桑の実のことを書こうと思っていたら、つい現実の話になってしまった。来年こそは原発抜きに、季節の話題として取り上げたいと思う。画像