小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

521 遥かなりラオス(2) 山岳地帯へ・その2

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 第1の難所を抜け出したものの、さらに5キロほど行くと、えんえんと続くぬかるみの上り坂に差しかかった。ここも溝は深い。左側の溝に入り込んだ先行のノンちゃん車を助けるために自動巻き取りの牽引ワイヤーロープを太い木の幹に掛けて引き出す。こう書くと簡単のようだが、左側に張り出した木の枝を切り、さらに道を直す作業が伴い、ここでも1時間を要した。ノンちゃんの声はますます力強くなっていく。
 
 前回、彼女は7人の養子がいると書いたが、21歳から16歳までの男3人、女4人の構成だ。家庭的に恵まれない優秀な子どもたちを引き取り、学校に行かせているのだ。ノンちゃんは、ラオスの大きな病院に就職が決まりかけていた時、NGOに頼まれ、出身のサラワン県で子どもたちの面倒をみているうちに、この活動に身を投じたのだ。彼女の父親はラオスの有名な大学教授だった人で、現在の有力政治家や役人たちは、父親の教え子だという。
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 ノンちゃんが所属するVFIというNGOのトップは米国人だが、サラワン県など南部はノンちゃんが面倒を見ている。このノンちゃんを支えているのがニャイさんという北部のリゾートホテルのオーナーの娘さんで、ロシアの大学に留学し、会計学を学んだ才媛だ。決まっていた銀行への就職を蹴り、NGO活動に飛び込んだ彼女は、ノンちゃんと正反対の物静かな女性だ。2台目の車に同乗しながら、彼女は外の騒ぎをよそに、車からは降りようとしない。「経理や事務を扱う私はノンちゃんとは役割が違う」ということらしい。
 
 2台の車には日本人はNPOの谷川さんと金子さん、福島の小学校の宍戸校長先生、横浜の小学校の小林先生の4人と私の計5人が分乗し、運転役のノンちゃん、ラオスの青年のほか、ニャイさんとノンちゃんの部下の青年、サラワン県の教育省の女性課長も乗っている。この女性課長もニャイさんと同様、極力車からは降りない。難所にかかると、ノンちゃんが車から降りるように言っても彼女だけは別なのだ。彼女もニャイさんと同じく「私は車から降りる必要がない」と、割り切っているようだ。
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 第2の難所の抜け出すと、曲がりくねった上り坂が多くなった。しかも岩がごろごろしている「岩の道」だ。でこぼこ道に体がジャンプし続け、後部座席の左側に乗っている金子さんは、何度も窓ガラスに頭をぶつける。まるでロデオのようだ。ロデオドライブというスポーツもあるそうだが、私はごめんだと思う。ノンちゃんによると、この道は「ホーチミン・ルート」の一部だそうだ。
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 ベトナム戦争当時、北ベトナムから中立国のラオスカンボジア国内を通り、南ベトナム南ベトナム解放民族戦線への陸上補給路として利用され、物資や兵力が投入された。英語表記はHo Chi Minh trailで、「トレイル」は獣道のように通常は地図に載らず、自然の中の単なる動物の通行の跡と大差ないような、細い小道を指す言葉であり、南ベトナム解放民族戦線側が通常の道路を使用せず、自然の中に小道を開拓して利用していたことに由来する、という。
 
 ベトナム戦争に中立国だったはずのラオスカンボジアが戦争に巻き込まれたのは、米軍がこのホーチミン・ルートという補給路を絶とうと攻撃を加えたためで、その結果、ラオス(パテート・ラーオ)とカンボジアクメール・ルージュ)の共産主義勢力を相手にこの戦争は拡大し、ラオスにも大量のクラスター爆弾枯葉剤が投下され、不発弾がいまもラオスの人々を苦しめているのだ。
 
 そのベトナム戦争が終わって、もう34年の歳月が流れた。隣国のベトナムは経済が発展し、豊かになった。ところが、戦争に巻き込まれたラオスはいまも世界の最貧国のひとつであり、山で暮らす人々は、この悪路しか町へ出る道はない。
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 岩だらけの道を抜けると、もう1台の車が泥の道で立ち往生していた。ぎりぎりに道路わきに車を寄せて、ノンちゃんはその車を追い越す。ワイヤーで引っ張っても無理なので、2台は先を急ぐことにする。日暮れがやってきた。ノンちゃん車のライトに照らされた前方以外は闇に包まれてきた。道の両側の森では、夜行性の動物たちがうごめき始めているだろう。そんな思いに浸っていると、ノンちゃんが急に車を止めた。前方に大きな倒木が横たわっている。数日前の強風でやられたらしい。(続)
 
(写真は山岳地帯の風景、首都ビエンチャンの街で見た光景など。今回の道の状況は撮影不能なほど大変な場所でした)