小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

236 映画「明日への遺言」 信念貫いた高潔な人間像

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 小泉堯史監督は、文学の秀作をじっくりと映画化するのが特徴といえる。「阿弥陀堂だより」(南木佳士)、「博士の愛した数式」(小川洋子)、今度の「ながい旅」(大岡昇平)からの「明日への遺言」。共通するのは静かな語りかけだ。

 決して声高にはならない。その小泉イズムを今度も貫いた。戦後、連合軍による戦犯を裁く法廷は横浜にも設置された。BC級といわれる戦犯を裁いた法廷に、岡田資中将も立った。 太平洋戦争末期、名古屋市内を無差別に空爆し、爆撃機から落下傘で降りてきたパイロットらを拘束した日本軍は、捕虜としてではなく、戦犯として処刑する。 それを実行した岡田中将以下は戦後になって戦犯に問われる。

 大岡昇平は戦犯に問われながら、責任を回避せず信念を堂々と展開し、部下をかばった岡田の裁判での戦いを小説にした。 映画を見るに当たって「映画は原作を超えられるか」と、いつも自分に宿題を出す。小説は読者の想像力を豊かにさせる。

 しかし、映画はフィクションといえどもリアルさが命なのだ。では、明日への遺言はどうだったか。 ナレーションを入れなければ岡田がなぜ裁かれなければならなかったのか分かりにくい映画と思った。その意味では、竹野内豊のナレーションは映画を補足したといえよう。だが、もう少し静かに語りかけた方が岡田の戦いを浮き彫りにできたのではないか。

 岡田という高潔な人間像を藤田まことは好演した。ほかの共演者の台詞は少ない。法廷で夫の一挙手一投足を見守る妻役の富司純子の演技が心に残った。 岡田と検察官の法廷でのやり取りで、岡田に好意を持った米の検察官が助け船ともいえる質問をする。このシーンが印象に残った。

 中将とその部下は、無差別攻撃を行った米軍戦闘機搭乗員を処刑した罪に問われた。アメリカ軍の法律には非戦闘員への無差別攻撃に対する「報復」が認められている。 そこで検察官は、岡田らが米軍戦闘機搭乗員を処刑したのは「報復」ではなかったかと問う。これに対し「イエス」と答えれば、岡田は絞首刑を免れた可能性があった。しかし、岡田は軍による正当な処罰であり、責任はすべて司令官だった自分にあるという立場を崩さない。

 東京大空襲をはじめとする日本各地の空襲、さらに広島、長崎への原爆投下は、日本人に対する無差別攻撃そのものだった。 結論を書く。この映画も前の2つの作品と同じように、小泉は映像という手段で原作者の思いに迫ったのではないかと考える。 ともすれば、責任を回避する人間が横行する現代社会。岡田の責任の取り方は極めて爽やかだと思うのは私だけではあるまい。岡田のような人物でさえ、運命に翻弄された昭和という時代は何だったのかと思う。