小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1564「戦争との決別は権利であり、義務である」 江崎誠致著『ルソンの谷間』再読

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 江崎誠致著『ルソンの谷間』(光人社)を再読した。この小説は1957(昭和32)年3月、筑摩書房から出版され、この年の7月、第37回直木賞を受賞している。江崎の体験を基に、太平洋戦争末期、米軍のフィリピン奪回作戦でマニラから撤退する日本軍兵士の悲惨な実態を描いたものだ。内容は純文学の要素も強く、芥川賞を受賞してもおかしくない作品だ。  

 太平洋戦争末期の1945年1月、米軍のリンガエン湾攻撃によって、マニラの陸軍第4航空軍は慌てふためき、軍司令官(この作品では登美永中将、実際は富永恭次中将)は、兵士たちを置いてルソン島から逃れ、飛行機で台湾に飛び立ってしまう。残された兵士たちはマニラから第14方面軍司令部(山下奉文大将)のあるバギオを目指し、撤退を開始する。  

 司令部の暗号手だった上等兵の主人公(藤木)は、6人の兵士たちと一緒に大隊に組み込まれる。撤退とはいうものの、その実態は山間の部落を襲って食料を奪いながらの逃避行だった。ルソンの山中を徒歩でバギオを目指す兵士たちを待っていたのは、まさに地獄だった。米軍とゲリラの攻撃、さらに食料不足と熱病・マラリア、日射病(熱中症)……。兵士たちは次々に倒れ、死んでいく。そんな中で、銃撃を受け右足を負傷した主人公は、軍靴を捨てはだしでルソンの山中をさまようのである。  

 作品には2つの象徴的場面がある。1つは、疲労困憊しながら、雨の高原で兵隊たちが演芸会を開くシーンだ。みんなが役者になった。故郷を思い、幼い日々を思い、過ぎた日の青春を思って歌う。そして、兵士たちはしのつく雨の中、膝を抱えて眠りにつく。  もう1つは、軍服を着た2人の白骨を見る場面である。

《二人の白骨が仲よくならんで眠っていた。まさしく眠っていると言ってよい、どこ一つこわれていない。綺麗な、洗いたての、まっさらな白骨であった。それはまだ、幾分しめりをおびて、艶があり、表情さえたたえているではないか!おまけに、上衣に半ズボン、帯革を締め、靴を穿き、帽子までかぶっている。白骨がである!もし、それが、そのままおきあがって歩き出したとしても、誰もいぶかしがるものはいなかったろう、と思われた。(中略)白骨族はその二人だけではなかった。茂みの向こうにも足があるのを発見した。私はその灌木をひとまわりしてみた。ほかに三人の骨があった。一つは崩れていた。坐ったまま死んだものらしい。道ばたの二人に比べ、よごれた服を着ているのは、たしなみの悪い不精な男だったのであろう。その向こうにも灌木があったが、それだけで私は探索をうちきった》  

 これに至るまで、この作品には兵隊の「死」の場面が連続して登場する。それらの死体からはおびただしいウジ虫が湧いてくる。ルソンの山中をさまよい続ける兵士たちにとって、生と死の境はどこにあるのか分からない状況だった。作者が書くように、指揮官の優劣によって犠牲者数は違っていた。  

 この作品の軍司令官のモデルでもある陸軍第4航空軍司令官富永恭次中将は、陸軍で初めて特攻隊(航空特別攻撃隊)の出撃命令を出し、多くの若者を戦死させた。さらに、米軍の攻撃が始まると、自身は口実をつけてマニラから台湾に飛行機で逃げるように飛び立ち、敵前逃亡をした司令官といわれた。こんな司令官がいたフィリピン戦線で日本軍(軍属も含む)は、太平洋戦争最大の50万人以上が犠牲になった。  

 作者のあとがきが胸に響き、何度も読み返した。「戦争との訣別を」という作者の願いは、21世紀に生きる私たちにとっても共通する重い課題なのである。 《思えば、あの幾千万という人間の生命が、野蛮にも故なく奪われた第二次世界戦争は、遠い昔のことではなく、すぐそこに存在していた。そこでは、健康な青年は勿論のこと、婦人も子供も老人も、また結核にむしばまれた病人であれ、特高の拷問にゲシュタポのガスかまどに、この物語のような異国の戦野に、原子爆弾の閃光に、見さかいもなく抹殺された。そこには、殺すものと殺されるもののけじめがあるだけであった。  

 その、厖大な犠牲とひきかえに自覚された人間の尊厳を、私たちは守り通さねばならぬ。戦争との訣別(決別)こそ、私たちが、すべてに優先して確保すべき、権利であり、義務であろう》  昨年亡くなった共同通信社時代の先輩の言葉を付け加える。 《戦争は狂気以外の何物でもない。だが、やっかいなのは人間の中に巣食う獣性である。時に大量殺りくを繰り返し恥じるところがない。人間はつねに正気に立ち戻る日を持たなければ破滅してしまう》(田中耿一) 写真 近所に咲いた桐の花 桐はかつて、家に女の子が産まれたら、嫁入りする際のタンスをつくるために植えるという風習があった。息子の出征の度に桐を植えて無事を祈ったという話が『おかあさんの木』という映画にあったことを覚えている人も少なくないはずだ。  

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